昭和天皇御製  (昭和30年、55歳)

 

久しくも 見ざりし相撲 ひとびとと 手をたたきつつ 見るがたのしさ

 

この人がお相撲好きであったことは言うまでもないが、この日はいつものようにTV観戦ではなく、戦後控えていた国技館での観戦である。無邪気な人だ。

 

私は小学生からの相撲好きで、親に、親戚のひとにも春場所で枡席で計2度観戦させてもらった。オヤジは多分取引関係で、親戚は庶民的セレブであったからと思う。とにかく私は熱烈であった。今はどうかしらなが席をとるのは簡単ではなかったと思う。TV(当時は白黒)と違って、仕切り直しをするごとに力士の躰が紅潮するのだ。今はカメラも多角度からうつしており、解説もレベルアップしているように思う。遠い昔のことで、比較のしようもないが。余談だが昭和天皇は1万首、明治天皇は10万首詠んでいる。今上天皇は歌会始めには詠んでいるが、この伝統は途絶えたといってよいと思う。こまめに各地を巡行していて頭が下がるが、歌に国民のことを詠み込むのも大事とは思う。俳句は江戸時代にはじまった文学で、天皇家で俳句をやるひとは多分いないとおもう。雅で無いというか。万葉集の巻頭歌は確か天智天皇の歌であり、防人の歌やらなんやら、渡部昇一によると和歌における平等があったということだ。

 

プイプイで生まれ変わったら今の相手と結婚するか、という話題をやっていたとき、森弁護士が、強い口調で「人生は一度きり」と断言したこと。前世がどうのこうのと騙される人も多いが、この発言はおかしいと断言しておこう。まず、いま取り上げているのは、もし生まれ変わったらという仮定の上での話である。何もコメンテーターが輪廻転生するとかいっているわけではない。弁護士としての最低要件の思考の論理性の欠如がある。弁護士は、憲法~条例、判決など成文法と慣習法とに最低論理的に忠実であるのが建前である。ただし解釈にバリエーションがある。これが大岡裁きみたいなものを可能にさせるが、どう考えても論理的におかしいという判決がある。先ず直感があり、次ぎに法的なもので論理的にフォローするということ。数学は論文に仕上がったときは論理的体裁をとるが、まず直感が先行する。受験数学でしこたま洗脳されている人には分かりにくいかもしれないhが。

 

もうひとつ、これには人生のどん底を味わったことのない、いわゆる勝ち組の発想が垣間見ることができるということだ。何の罪も無い人がテロにあったりするが、「人生一度きり」なら弁護士がどうしようと当事者は本当に納得できないと思う。いわば神を否定することになる。科学病にかかっているともいえよう。人生一度きりという洗脳が世界の随所で行われている。このことは今まで何度も述べてきたが以下に再論する。ヨーロッパでも最近輪廻転生を確信している人が多数派になっているときく。どう考えてもそっちの方が自然ということだろう。いつもの悪い癖でめんどくさくなってきたので、雲の詩で書くかも。このことについては、物的証拠は無いが、死んでみると分かるらしく、臨死体験をした人の証言?とか退行催眠(前世や前前世に睡眠術でトラウマの原因を探すときに偶然に分かった)などのデーター量はハンパなく多い。数学はさかのぼると何がなにやらになるが、途中からは証明されていることになっている。物理はこういう風に考えると、色んなことが説明出来るということだ。輪廻しないというのは憶測による断定で、根拠は無い。生きている人が死んでいくという現象を表面的に見ているだけ。こう思わせると、死への恐怖感を与え、もうかる人が多い。