心は悠久の時(間)の中に情緒として存在するが、この時間というものをこういうものだと正しく言った人は人類始まって以来一人もいないと岡は言う。そして彼は時とはなにかと言うと(真の)自分が時であるという。だから心が目覚めるまでは、時とは何か分からない。自分がお金を求めて時間に追いかけられると、そこは空っぽなのだから、真の自分(本来の面目ともいう)は無い。時間に追いかけられているからそこには充実した時間というものがほとんどない。つまり時とは何かが分からない。少しでも充実した時間を持とう。時間泥棒はそのうち消滅することを信じて。
目覚めた人(神仏ということにする)の時間とは、静止した退屈な時間ではなく無限向上のお道を進む充実した時間であり、一方向的なものでなく多様な方向性を持っていて、人の限りない幸せを念願し実現しようとするワクワクするものである。誤解されているが、悟ったら終わりではなく、そこからが始まりなのだ。現在の世界の抱える多岐にわたる問題は、様々な考えを持つ神仏の幅広い協働が必要で、そのなかで共に学び合い当面する問題を解決する過程である。神仏が更なる神仏になり、神人を神仏にしてく、問題を深掘りし更なる美しい解決を目指していくことである。
岡はそれは第一段階で、次ぎにどこか適当な星に行って向上し続けるといっているが、私には未だ理解できないので述べない。
この無限向上のお道は、前もって道が見えているわけでもなく、むろん前もって敷かれているわけではない。自分の命の燃焼をしながら道を拓き進んでいく、道無き道を行くことで、時間とは自分、無限向上とは時間という自分の生命の輝きである。
話が小難しくなってきたので分かりやすく述べる。山崎弁栄が言っているらしいのだが、如来(神の中の神)は絶えず光明を放っていて、自然界、心霊界を照らしTVのように見えるようにしてくれている。その内容は心の世界であり、神々の花園と岡が表現するもの。みんながこのTVにうつって、その内容は無限に深まって限りが無いということである。そのTVの筋書きは神々の御心、意志であり、それが固定的なものではない。視聴者参加型とでもいうか、TVを見た人が世の中を変えていき、それに対し次の筋書きが考えられていくという風な。
ここからは岡の言うことをテキトーに書くと、十万年以上続いている皇統というものがある。その発祥があるはずだが、古事記によれば南九州に(神が)天降った、その後東征して大和朝廷を築いたということだが、どこに天降ったかは飛騨というのもあったような。大和朝廷は蝦夷(アイヌ)と敵対する。元々日本人はアイヌに北方に追われ、北ユーシア経由でヨーロッパにたどり着き、色んなルートで日本に戻ってきたとか、少なくとも途中まではアイヌと共存していたとか色々アリーのであるが、よく分からないのでそのうち。