物事には内外二面がある。内とは内容(content。HPのコンテンツは複数形で、それに含まれる別項目になった内容をいう)と形式である。日本の芸事は「かた」といって型から入ることが推奨される。破綻が無く自己流になりにくいので。
この内容のこおを日本では心といっている。「そのこころとは?」みたいに。
ところがこの心を的確にさす英語はない。つまり欧米語には無い。つまりトートロジー(tautology, 類語反復)的であるが、花が開くとき蝶がやってきて、蝶がやってくる時機に花が開く、それを見て楽しんでいるいる人の心を全てひっくるめた調和にみちた知情意の総体みたいなもの、つまり花鳥風月の世界である。
このように、いざ説明すると多言を要するが、そう言われると日本人ならそやな、と腑に落ちる。岡は人種無関係にそういう人を日本人と言っているのであるが。
つまり心というものは、そういう内容を内包していrということで、日本人なら暗黙の了解がある。
英語でheart は喜怒哀楽などの感情の宿るもの、soul は魂の宿る心、mind は知力・頭脳で現実的かつ能動的に考える思考力みたいなもの、spirit は生命の息吹といったところであり、いずれも心と訳される。
中国の儒教には親<孝>行を倫理として、国やお上に<忠>を尽くせといっても(愛国心)やっぱり倫理として人に行動様式を時として自然な心に反して押しつける。
仏教では唯識論で、あらゆる現象やその存在は唯一実在する心識のはたらきによる仮のもの、内心の映像である。要するに人の心自体は述べず、それは覚者となれば了了として明らかであるとしている。つまり心のはたらきのからくりを形式的に説いているに過ぎず、一種の心理学といえる。他者に可視化するとなると、現存する覚者そのもの、仏教芸術・文芸であろうか。日本人にはまどっこしいが。
ここで心の世界を説明し直す。心には二つあり、一つは心理学の対象となりうるもので、「私」(自我、self)を入れることによって動くもの。意識(consciousness)を通して物事をとらえるはたらきとも考えられる。欧米人はこれしか知らないと岡はともかく言っている。
第二の心は無私の心である。第一の心と真逆ともいえる。意識を介さないはたらきである。我という夾雑物を取とり払った真心とでもいうか。その持ち主をアホという。確かに自分のことより人のことなのだからバカにはそう思えるのだろう。
現代的自然科学者の多くは時間・空間ありきであり、これがそもそも物事を見えなくさせている固定観念というものなのだ。
第二の心は説明しずらいが、岡の好きなことば「情緒(ふつうじょうちょとは言わずじょうしょという)に包まれた大自然、つまり無量の情緒の世界に住んでいて、秋風が吹くともの哀しく、春雨がしとしと降っていると昔懐かしいといったことを感じるこの心と大自然が永遠に続く時の流れとともにある、といった総体といえよう。それが自分と気が付いた人を目覚めたひと、そうでない人を眠った人という。
私見によれば、人類の半数は神人であり、(残りを悪魔君としておく)目覚めた人を神といい、眠れる神を神人という。