そこまで言って委員会で、住田氏が、検察にいるときのことだが、ノンエリートではなく、エリートをとっ捕まえるのが手柄としていたと言っていた。元々検察は警察と違ってそういうところであるが、田中角栄など大物をやり玉に挙げると検察は仕事をしたことになる。交通警察がねずみ取りをやるのと同じで、時々大物政治家をやっつけるのが勲章なのだ。田中角栄の裁判は、日本の司法では証拠採用しない他国のアメリカの検察によるもので、おまけに司法取引した証拠による。おかしなことに1,2審では反対尋問を認めていない。つまり検察の意に沿った形でなされた。(立花隆が金権政治と言い立てたが、NASAから見返りに情報をもらって宇宙飛行家なんかの本をかいているらしい。全く売れていないが。彼の顔の気持ち悪さはハンパではなかった。)最高裁は新規証拠採用はしないから、結局おかしいことを最高裁は知っていたから、田中角栄が死ぬのを待っていたわけだ。

許せないのは、死刑が確定することにより反省することが多い、つまりそれをもって死刑制度を容認しているということ。弁護士が容疑者に入れ知恵して、殺したが殺意はなかったとか、認知症であったとか、謁見後ころっと容疑者の言うことが変わることは常識であるが、住田氏は弁護士のモラルとして自分は無罪を確信出来ない人は扱わないといっていることだ。住田氏は金には困らないし、正義漢の北村弁護士はそうであろう。住田氏の言外には結構金目当ての弁護士がいることをにおわしている。はっきり言うと弁護士仲間に具合が悪いからそういうのであろうが、それこそが倫理に違反するということなのだ。最近弁護士余りで、年収100万いかない若い弁護士が結構いると聞く。マーケッティングとして、過払い請求ができるとか、B型肝炎がどうとか悪知恵を働かせている。勉強は出来るひとたちであるから悪知恵には事欠かない。

 

横道にそれたが、反省する、しない、出来る、出来ないは死刑が確定しようが、住田氏のようにTVでおかしなことを発言しようが、(反省を重ねないからおかしな事を美しくない顔で言うのであるが、)無関係である。キリスト教ではそれを予定説という。神は初めからこの人は良い麦、この人は毒麦と聖別しているということだ。ここからは私見になるが、その比率は半々であり、毒麦は何回生まれ変わっても毒麦で、住田氏はもうそこまできている終わりの日に、永遠に業火で焼かれることが決まっている。そもそも、人をあやめてたからといって、無期懲役ならいざしらず、死刑に確定すると反省することをもって、人が人を裁く(殺す)ということは論理的にすらおかしい。そういうことは神さんがすることである。

 

瀬戸内寂聴は以前死刑制度を支持する者はバカといっていたが、少なくとも仏教者の発言ですらない。人間は業という悲しい性を持っている動物である。生き物の中ではサイテーなのだ。ライオンは腹が減ったら食う、食わなければのたれ死にする、それだけだ。死刑制度がどうのこうの、仏教がどうのこうのという。そうしないと安心立命が出来ないという頭でっかちのパンツをはいて、本を読んだり、小説を書いたりする猿なのだ。そのことに涙することが根底にある。もう仏教、キリスト教、イスラム教、神道などと言っている時代は既に終わっている。人間は神に助けを得ながら、地球の皆の衆と天国を共働して創造していく道を進みつつあるのだ。そこに歓喜の合唱が響き渡っている。

もう一つ、海老蔵さんへのコメントで、仏教は自分を忘れ他人に尽くすことが大事と言っているが、それに間違いはない。ただ寂庵を訪れる子供たちが、彼女の頭をくりくりなでると何気に自分をアピールしている。どうも自分を忘れきっていないようだ。それを権威付けにしているようだがコメントは無内容である。真央さんの転生者(今から新しく生まれ変わるわけではない。同系列の女性が、父子のために真央さんの意志をついでスタンバイしているから少し時機を待つということだ。この人、というのは必ず父子にわかるようになっている。世間はとやかく言わないことが大事なのだ。