先ず、シンセの究極の音源は量子の雑音であること。
要するに、確率論的非決定的世界が絡んでいる。
そういうものは、ある意味制御不能な世界と言える。
元々制約とかいった、へったくれがない。

古典曲をシンセで再現することにあまり意味を感じないが
喜多郎がアメリカから取り寄せて、カタログを見ても
分からないから、試行錯誤の末、風の音と波の音を出せる
ようになって、最終的に様々な画期的なシンセ音楽を
生み出した。

このことは、プログラミングで言うと、
先ず小さいプログラムを作り、段々機能を付け加えて
膨らませていくようなものだ。
何事においても、種がないとアカン。聖書的に言うと
パン種とでもいうか。それは小さくてもよい。
むしろ種だから小さいのだ、見かけ上。

それがあれば、あとは理想とか、モチベーションとか
構想とか、周りのイジメに耐える力とかがあれば
なんとでもなるというものだ。
日本は嫉妬社会であり、アカデミックの世界では
イジメは強烈と考えた方がよい。
体育会系より陰湿といってよい。
今日日、就職面で氷河期にある所はえげつない。
小保方さんもその類にしてやられたと思う。

がんばれオボチャン!!!

付け加えるなら、文学において
定型と非定型ということがある。
定型はある種の制約があるが、
一方で破綻しにくい一面がある。
才気煥発な河東碧梧桐が
非定型無季語俳句を提唱し、実作したが
破綻し、結局、山頭火、放哉において
多少花を開いたといえよう。

不思議なのであるが、目茶苦茶にやっていても
やがてはそこそこ格好がついてくる。
守破離というが、どういうことなのか。。。

制約の中での自己実現てなことを言うが
書家の榊莫山が、書壇をはみだして
新境地を拓いたこと、
芸術には常にはみ出しが重要であると言っている。
はじめから制約の中で、なんて言わずに
ぶちこわすくらいで丁度いいと思う。
経験上。

精神的若者はアナーキーになろう。

>
>=======================================================
> 田坂広志 「風の便り」 四季 第85便
>=======================================================
>
> 制約の中の自己表現
>
> かつて、シンセサイザーという技術が世の中に現れたとき、
> この新しい電子楽器を用いて音楽の地平を切り拓いた
> 冨田勲が、印象深い言葉を残しています。

> 「音のパレット」とも呼ぶべき
> シンセサイザーの出現によって、
> 画家が絵の具を混ぜ合わせ、
> 好きな「色」を作り出すように、
> 我々音楽家も、
> 自由に好きな「音」を作り出せるようになった。
>
> この言葉どおり、冨田勲は、
> この電子楽器を使って、様々な楽器の音を創作し、
> ホルストの『惑星』など、
> 大編成のオーケストラの楽曲をも、
> 見事に演奏しました。
>
> しかし、我々は、
> 彼の数々の素晴らしい作品を味わうとき、
> その作品に感動する一方で、
> もう一つの素朴な真実に気がつきます。
>
> シンセサイザーの出現によって、
> どれほど自由に「音」を作り出せるようになっても、
> 古くからあるピアノやバイオリンなど、
> 音の種類に「制約」のある楽器での演奏は、
> 決して無くならない。
>
> そして、その意味を考えるとき、我々は、
> 大切なことを理解します。
>
> アートの本質とは、「制約」の中での自己表現である。
>
> そして、
> もしそれが、
> アートの本質であるならば、
>
> 我々の「人生」もまた、一つのアートである。
>
> そのことを、理解するのです。
>
> 2003年6月16日
> 田坂広志
>