恥ずかしながら、見栄をはることを
あまりしなくなったのはつい最近である。
見栄をはるというのは、私の場合
ウソをつくということではなく
ええかっこしい、をすることなのだ。
ひけらかすとでもいうか。

そこには、エゴというものが
あるのだろう。
自分というものをよく見られたい
というか、自分という者に対する
他者の評価を気にする自分があるということだ。

しかし未だ、口に出して言わないだけで
心の中では違うんやけどな、
と自分を評価してもらいたいという思いがある。
えらそうなことを言いながら
こういう体たらくなのである。
70歳になっても。

何気に本当のことを言っても
あとで人には嫌味だろうと気づくことは
まだまだある。
別に、いわゆる悟ってしまいたい
とは思わないが、
どうも昔から言いたいこと言いの
多言症は治らない。この癖は
そのうち0に収束するのだろうか?

 

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> 田坂広志 「風の便り」 四季 第82便
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> 知識人の「落し穴」
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> 遠い昔の夏の日、
> ある出来事が心に残っています。
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> 私は、大学に向かうバスの中で、友人と議論をしていました。
> それは、「歴史の法則性」についての議論であり、
> その頃に読んでいた、ある歴史学者の学説について、
> 当時、注目されていた難しい学術用語を使って
> 議論をしていたのです。
>
> そのとき、隣の席に座っていた
> 労働者と思しき年配の人物が、
> 突如、私たちに語りかけてきました。
>
> 学生さん、「歴史の法則性」とは、何だい。
>
> その突然の質問に戸惑っていると、
> その人物は、静かな声で、
> しかし、体験の重さを感じさせる
> 深みある声で、言いました。
>
> 「繰り返し」のことだろう。
>
> この出来事が、いまも、心に残っています。
>
> なぜなら、このとき、一人の若い学生が、
> 大切なことを教えられたからです。
>
> 素朴な真実を、
> ことさらに難しい言葉で語ること。
>
> それが、「知識人」と呼ばれる人間が、
> しばしば陥る、落し穴であることを。
>
> そして、その落し穴から抜け出すためには、
> 自分の心の中の「エゴ」の姿を、
> 静かに見つめなければならないことを。
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> 2003年5月26日
> 田坂広志
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