大学闘争とも大学紛争とも言う。
大学入学は大昔になるが1965年で
今はどうなっているか知らないが、
1,2年は建物的に昔三高のあった
教養部に十把一絡げに放り込まれた。
あらゆる学部がごちゃまぜで、よかった。
様々な文化にプカプカして。
学生どうし話をしたわけではないのだが。


理学部は3年で(留年しなければ)分属する。
高校段階で、数学科に行こうなどと大それた?ことは
思はなかった。理系の学者になりたいとは
思っていたが。
小学校中学年では意外とはっきりしていて
希望職業はトンボ博士であった。
あとから思ったが、少なくとも受験数学と、
大学で学ぶ数学は別物である。
東大のように、1年半で分属し、数学科の人気は
どうか知らないが、希望が集中する学科もあるらしく
クリアーするために、勉強が必要らしい。
人にもよるのであろうが。
あほくさい。大学はのびのび勉強するところだ。
少なくとも1,2年のときは。

横道にそれたが、当時はベトナム戦争で
学生自治会は革命前夜のごとく騒然としていた。
今では信じられないようなことだが、
構内に警官が入ったとかで大デモになったことがある。
よく分からないが、大学自治の危機とかで
自分も参加した。延々と行列が続いていた。
京都というところは、学生に対し好意的な一面があり、
おばちゃんなどがビラを受け取ってくれたりする。
のんびりした時代であった。


4年の時に、カルチュラタンから東大、
そして京大でも時計台の攻防?があった。
日共系の学生が大教室で集会している処に
火炎瓶が投げ入れられたあたりから
セクト間の憎しみはすごくなったように思う。
フランス革命でも良いように言う人は多いし、
民主主義の基礎ができた一面はあるが
(日本においてはああいうことは必要なかったのでは?
もともと、十七条の憲法とか五箇条の御誓文があった)
セーヌ川が真っ赤に血で染まったことは事実である。
ロシア革命もご多分にもれない。
人間とはそういう存在なのであろうか?

話は飛ぶが、凄惨な浅間山荘事件で学生は
ドッシラケになったように思う。
それから相当たって京大でアルバイトで教えに行ったとき
校門を入った処にマイクを肩に何か訴えている学生がいたが
阪大の学生によると、天然記念物的存在らしい。
阪大では時折立て看を見かけたが、昔とった杵柄か
職組によるものであった。

私は数学研究においてそうであるが、
若者の時に思い描いた理想は常に念頭にあり
最近70歳になったが、ますます理想を
思い、実現に燃えているつもりである。
人とはおそらく3~40年は遅れているのではないか。
数学研究においてはこの年齢では店じまいしている
人が多いように思う。
ミスター遅れである。
私は人生を限定的に考えていないから、
息尽きるまでますます精進しようと思っている。
思っているだけであるが。
学生時代、溝畑さんが、20代は暗中模索、
30代は乱作、40になってからいいものが出来ると言っていた。
それを元にして考えると、+35位かな?

とにかく挫けるとか挫けないとか
きばらいでえやないの?

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> 田坂広志 「風の便り」 四季 第79便
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> 若者たちの矜持
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> 1968年のある日、
> 大学闘争の嵐が吹き荒れていたキャンパスの
> 正門前に掲げられた立看板。
>
> そこに、大きく書かれていた言葉が、
> いまも、心に残っています。
>
> 力及ばずして敗れることは、辞さないが、
> 力尽くさずして挫けることを、拒否する。
>
> 当時、多くの学生の心をとらえ、
> 彼らを変革の闘いへと駆り立てたこの言葉を
> 数十年の歳月を経て思い出すとき、
> 一つの問いが、心に浮かびます。
>
> この言葉は、あの時代の若者たちの
> 単なる自己陶酔と英雄主義の言葉だったのだろうか。
> それとも、それは、あの時代の若者たちの、
> 覚悟と矜持の言葉だったのだろうか。
>
> その問いを静かに問うとき、
> 心の深くから、声が聞こえてきます。
>
> その答えは、まだ定まっていない。
>
> そして、その声とともに、
> 一つの思いが、心に残ります。
>
> その答えが定まるのは、
> いま、ではない。
>
> あの若者たちが、その生を終える、その日に、
> 答えが定まる。
>
> その思いが、心に残るのです。
>
> 2003年5月5日
> 田坂広志
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