先日、BSプライムニュースで、佐藤氏(イラクへの自衛隊人道復興支援などの隊長をつとめ、現在自民党の参院議員)が、トランプ大統領の娘婿のことと思うが、(ユダヤ教徒でもゴリゴリとみられていて、私もそうかと思っていた)リベラルな一面があると言っていた。理由はイスラエルではユダヤ人は多数派であるが、アメリカでは少数派であり、そういう状況下ではリベラルになるということであった。
イスラエルにおいて、スファラディユダヤは元々アラブの人と仲良くやっており(当然顔色も黒っぽい)お金に不自由はしていなかったが、現在は真っ白けのアシュケナジーユダヤに牛耳られているという認識を持っていた。このあたりは、認識を変える必要がかなりあるかも。人種的に真っ白けのユダヤ(かつて言われていたのに反し、遺伝子解析でユダヤ人としてよいらしい。ユダヤ人の定義はユダヤ教を信じている母親から生まれた者というらしいのだが)にもどうみてもまともな人がいる、例えばディープスペクターのように。これは例外的なものではない、と思うに至った。
結論的に言うと、多数派とか、人種的とかいうことではなく、反省するか、しないかにあるということではないか、ということである。例えばアメリカの大部分の富は1%の人が握っているとされる。富の面から見れば1%の者は多数派であり、残りの人に何も感じず、更なる富を追求するという、悪の権化は悪魔を信じている?のだから普通の意味では反省することはない。
同じようなことだが、中華思想にもそういう処がある。そういう文化を是とすると、おかしなことになり、そういう人も多いようであるが、混乱しがちであるが、だから××人は、という短絡的発想は間違っているように思う。朝鮮ではリャンパン思想という、働かないで食べる御領主様が理想みたいなのがあったようである。要するにこの種のものは思考停止になりがちと思う。これからは、日本文化も知って貰い、外国の文化も混ぜ混ぜして、各国、各民族の固有の彩りを持ちながら、和気藹々とした楽しい世界になれば、と思う。グローバル・スタンダードてなものではなく。