気まぐれ何でも館:(615)岡野弘彦(飛天)(最終回)
  
 父亡くて遠くなりたるふるさとの風音ひびく熱を病む夜に
  
 まぼろしの藤の花ぶさゆるるなり若かりし日の母を恋ふれば
  
 伊豆の島とほく灯ともす流されて果てにし人も親ありにけむ
  
 暮れはつる洋(わた)の夕べにむかひゐて心凝るまで親をおもへり
  
 ふるさとの煤(すす)け仏にそそぎたる甘茶は雨の夜に匂ひたつ
  
 雛(ひな)の夜の雪ふる峡にまぎれ入りかへらずなりし父のたましひ
  
 海やまの蒼き境を見はるかし神成りしものここに鎮まる
  
 つらなりて空わたりゆく白鳥(しらとり)の大き一羽となりていまさね
  
 舞ひくだる飛天のをとめつやめくを見呆(ほ)くるわれの身は透りくる
  
 ひた走る地平の空は夕焼けてまぼろしの馬われに寄り添ふ
  
 炎熱の海市の道をぬけいでてすがすがと笑ふわれの恋びと
  
 おもかげを忘れんとして入りゆきし花ふぶく日の吉野象谷(きさだに)
  
 桜木の社の庭に膝抱きておよそひと日を坐りゐたりし
  
 われを率(ゐ)て家を去らんとせし父のこころ木魂のごとく恋ひしき
  
 陽に透(す)きて垂り房あをき葡萄棚ウィグルの娘(こ)はふかき瞳(め)をもつ
  
 驢馬追ふを楽しむらしき朝の道に童ふたりの声競ひゆく
  
 口そそぐ河の淀みに白じろと水漬く羊のむくろに驚く
  
14.10.29 抱拙庵にて。