川村二郎(元『週刊朝日』編集長)

さよなら朝日・求められる解体的出直し
(Voice Voice 2014年11月号掲載) 2014年10月20日(月)配信

――記者を平気で使い捨てにする『朝日』は考えを改めよ

役員10人のうち8人が編集部門

 私が『朝日』の記者になった1964年(昭和39年)、朝日新聞社は「お家騒動」の余震が続いていた。

 お家騒動というのは、『朝日新聞』を創業した大株主である村山家の当主、村山長挙社長(当時)が人事や紙面に口を出すので、常務取締役(当時)の永井大三さんが体を張って抵抗し、社内が社主家派と永井派に分かれて争った騒動である。論説主幹、東京本社編集局長を両派から出し、どちらのポストも2人という異様、異常な事態が続いていた。

 そんなことになっているとは、私は『週刊新潮』を読むまで知らなかったのだが。

 永井さんは現在の一橋大学を出て朝日新聞社に入り、販売一筋を歩み、「販売の神様」といわれていた。『朝日』を実質的に日本一の新聞にした立て役者である。

 左目にいつも分厚いガーゼを当てていたことから「独眼竜」とも呼ばれていた。当時は販売と広告が一緒で、永井さんは両部門を統括する「業務局長」のポストに就いていた。

 新聞社では、お金を稼ぐことをしない編集部門が“虚業”とすれば、お金を稼ぐ販売と広告は“実業”である。

 虚業と実業は補完し合う関係にある。それなのに朝日新聞社はある時期、役員10人のうち8人が編集部門出身で、販売部門と広告部門からはそれぞれ1人ずつということがあった。雲の上のことには興味がなかったので、人数は間違っているかもしれない。

 しかし虚業が圧倒的に優勢で、クルマに例えれば虚業のタイヤはダンプカー、実業のタイヤは軽四輪のようだったことは間違いない。これでは同じ所をグルグル回るだけで、前には進めない。

 私は『朝日新聞』が起こした一連の“事件”の背景には、虚業と実業のアンバランスがあったという気がしてならない。

=============================

反省、マタンキ!!

僕も金銭的な面でシビア-さが欠けていました。普通にしてたら気が付かず何事も無かったし、気づきも無かったでしょうが、今回は骨身に沁みました。
川村二郎(元『週刊朝日』編集長)

さよなら朝日・求められる解体的出直し
(Voice Voice 2014年11月号掲載) 2014年10月20日(月)配信

――記者を平気で使い捨てにする『朝日』は考えを改めよ

役員10人のうち8人が編集部門

 私が『朝日』の記者になった1964年(昭和39年)、朝日新聞社は「お家騒動」の余震が続いていた。

 お家騒動というのは、『朝日新聞』を創業した大株主である村山家の当主、村山長挙社長(当時)が人事や紙面に口を出すので、常務取締役(当時)の永井大三さんが体を張って抵抗し、社内が社主家派と永井派に分かれて争った騒動である。論説主幹、東京本社編集局長を両派から出し、どちらのポストも2人という異様、異常な事態が続いていた。

 そんなことになっているとは、私は『週刊新潮』を読むまで知らなかったのだが。

 永井さんは現在の一橋大学を出て朝日新聞社に入り、販売一筋を歩み、「販売の神様」といわれていた。『朝日』を実質的に日本一の新聞にした立て役者である。

 左目にいつも分厚いガーゼを当てていたことから「独眼竜」とも呼ばれていた。当時は販売と広告が一緒で、永井さんは両部門を統括する「業務局長」のポストに就いていた。

 新聞社では、お金を稼ぐことをしない編集部門が“虚業”とすれば、お金を稼ぐ販売と広告は“実業”である。

 虚業と実業は補完し合う関係にある。それなのに朝日新聞社はある時期、役員10人のうち8人が編集部門出身で、販売部門と広告部門からはそれぞれ1人ずつということがあった。雲の上のことには興味がなかったので、人数は間違っているかもしれない。

 しかし虚業が圧倒的に優勢で、クルマに例えれば虚業のタイヤはダンプカー、実業のタイヤは軽四輪のようだったことは間違いない。これでは同じ所をグルグル回るだけで、前には進めない。

 私は『朝日新聞』が起こした一連の“事件”の背景には、虚業と実業のアンバランスがあったという気がしてならない。

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反省、マタンキ!!

僕も金銭的な面でシビア-さが欠けていました。普通にしてたら気が付かず何事も無かったし、気づきも無かったでしょうが、今回は骨身に沁みました。