気まぐれ何でも館:(613)岡野弘彦(飛天)(20)
  
 香具山の尾上まぢかき泣沢の涙の森にわれは入りきつ
  
 朝露のしたたる森に立ちつくし女を思ふ身の冷ゆるまで
  
 ま裸の肩ふるはせてしのび泣く人の傍(かた)へをむごく去りきぬ
  
 ちちははが争ふ夜の息づまる闇に眼ひらき耐へてゐたりし
  
 いとしさに図(はか)られてゐるたのしみを老いの惑ひと言はば言ふべし
  
 身は冷えて舟よりあがる男らの声荒あらし暗き入江に
  
 まかがやく照葉樹林こえきたりきほふ心をしづめがたくゐる
  
 海やまの熊野の旅を終へしのち雪の睦月をつつましくゐる
  
 春の潮満ちみちてかすむ海原にいろこの宮の浪の音きこゆ
  
 海風にくれなゐの旗なびき立つ維盛の墓にのぼり来りぬ
  
 娘(こ)らが吸ふ煙草のけむり眼にしみて朝の心はたのしみがたし
  
 つぎつぎに化粧道具をとりいでて粧ふ女の顔を見飽かず
  
14.10.19 抱拙庵にて。