気まぐれ何でも館:(598)岡野弘彦(飛天)(5)
  
 暮れなむとする秋の海。病む父の息の細りをあやぶみて坐(ゐ)る
  
 かすかなるよろこびの色浮きいでてたちまち呆(ほほ)けゆく老いの顔
  
 この親にそむきて家を継がざりし何に気負ひてありし若さか
  
 万葉の恋のあはれを釈(と)きゐつつした燃えてゐるわれのこころ
  
 夜の潮の満ちみつる時うつし身は愛(かな)しきものをさ寝にゆくなり
  
 唇に血をにじませて風の街に去りゆきし女を忘れざるべし
  
 人はいまは去りてはるけしかの匂ふ頬(ほ)のくれなゐに触るる日はなし
  
 くぬぎ山ひと夜の荒れに散りつくし尾根吹く風の音変りたり
  
 脚萎(な)えし親を負ひ出て浅山の櫨のもみぢの散るを見しめつ
  
 産み終へて面しろじろとゐる人の眸やさしく雪ふりしきる
  
 保ちがたく心はなりて歳の夜の海に降り入る雪を見てゐつ
  
 木のうろにむささびの子の眠りゐる宵あたたかく春の雪ふる
  
 霜やけの血ぶくれし手に握りしめ汗かきし銭をわれにくれたり
  
14.6.21 抱拙庵にて。