気まぐれ何でも館:(562)美しく愛しき日本(岡野弘彦)(最終回)
  
 不動前にうなぎを喰ひて 行人(ぎょうにん)坂 馳せのぼりしは をととしの春
  
 足萎えて臥す痩せ男。あはれみて鰻を召せと 訪ふ人もあれ
  
 座敷童(ざしきわらし) をどる障子の影さゆる おほつごもりの夜はの降(くだ)ちに
  
 軒くらく 蚊柱のたつ家いでて 行きがた知れずなりし 祖母(おほはは)
  
 夜這い子も 父(てて)しらぬまま育ちゆく、ふるき明治の村のやすけさ
  
 大峯山 西の覗きの荒行に わが誓ひてし言(こと)も わすれむ
  
 夕かげに ほのかに笑みて去りゆけり。この世にあらぬ 妻のたましひ
  
 世をへだて生くるさだめのかなしきと ほろろに泣きて 去りゆける妻
  
 穴ごもりま近き熊が 息あらく 沢水を呑む音を 聴きをり
  
 みちのくの遠野こほしき。けだものも人も女神も 山わかち住む
  
 見し夢のなごりすべなし。亡き母は 面わそむけて泣きたまふなり
  
 桐の花 空をうづむる隠れ里 夜はまぶしく 近づきがたし
  
 精霊のごとき少女にみちびかれ 佐々木喜善の墓にぬかづく
  
 眼をとぢていつまでも祈るわが面を いぶかしみつつ 見あぐる少女
  
 吉利吉里へ笛吹峠こえゆかむ。わが前をゆく 井上ひさし
  
13.10.12 抱拙庵にて。