種子島にポルトガル人が、という鉄砲伝来の通説の不確かさ
鉄砲伝来は「天文十二年(一五四三)の八月、種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられた」「鉄砲は種子島から紀州(和歌山県)の根来、泉州(大阪府)の堺、さらに畿内や関東地方へひろまった」というのが通説だが、これは実は確かな根拠があるものではない。その「鉄砲伝来」の怪しい通説について史料を元に批判し新たな視点を提示する研究者に宇田川武久氏がいる。その宇田川氏の二冊の著書「鉄炮伝来――兵器が語る近世の誕生 (講談社学術文庫)」「真説 鉄砲伝来 (平凡社新書)」から、鉄砲伝来について簡単にまとめ。同氏は当時の記述に従い鉄炮(火へんに包)を使っているが、ここでは通用に従い引用部分含めて「鉄砲」とする。
「天文十二年(一五四三)の八月、種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられた」という説明の根拠史料となっているのは「鉄砲記」という書物だが、これは慶長十一年(1606)、種子島久時が父時堯の功績を称えるために禅僧南浦文之に書かせたものだ。種子島に流れ着いたポルトガル商船の商人二人と中国人五峰を介して交流した種子島時堯はポルトガル人から鉄砲の極意を学びそれを習得、百発百中の名手となって配下の鉄匠に製造方法を学ばせ、製造された鉄砲を使って鉄砲の名手を多く育成、各地に鉄砲を広め、それから六十年で日本中に鉄砲は広がった、種子島時堯の功績は偉大だという内容である。
また、ポルトガル人が鉄砲を伝えたという別の記録にイエズス会士ジョアン・ロドリゲスの「日本教会史」があるが、これはロドリゲスが日本追放後の1620年代にマカオで編纂されたもので、1561年生まれのロドリゲスが日本滞在中(1573~1610)に聞いた話を元にした記載であった。
1543年以前に鉄砲が伝わった記録は残っていないことから、この年代は間違いないと思われるものの、日本に伝わった鉄砲は西欧式火縄銃とは違い東南アジアの火縄銃と構造が類似していること、当時東アジア地域一帯で倭寇が積極的に活躍しており五峰とは倭寇の頭目王直の別名であることなどから、ポルトガル人ではなく倭寇が東南アジア式の火縄銃を種子島に伝える主体的役割を担っていたと考えられている。当時の倭寇は中国人と『西国諸国のほとんどの地域、すなわち薩摩、肥後、長門、ついで大隅、筑後、博多、日向、摂津、紀伊、種子島、豊前、豊後、和泉の日本人が参加していたという。』(「真説 鉄砲伝来」P46)
さらに、その後日本中に広がった鉄砲は種子島式の鉄砲だけではなく独自の様式のものが多々見られることから、1543年の種子島への鉄砲伝来後、その種子島式の鉄砲が全国に伝播したのではなく、倭寇や商人の手によって『九州や西国地方の沿海地に波状的に鉄砲が伝来し』(「鉄炮伝来――兵器が語る近世の誕生」P203)、お互いに影響を及ぼしつつ独自に発展したとされている。『これまで唯一のように思われてきた種子島への鉄砲伝来は、数多くあったひとつの事例にすぎないのである』(「真説 鉄砲伝来」P96)
伝来後すぐに軍用として使われたわけではない。まずは物珍しさから有力者間の贈答品として、続いて狩猟用として使用され、やがて鉄砲を武器に転用することを考案した人々が砲術師となって研究開発を進め、軍用にたる道具として戦術・技術革新が進んだ結果、永禄年間(1558~1570)から西国諸国で本格的に使われるようになった。具体的にはまず島津氏、続いて大友氏、毛利氏の順で特に大友氏は本格的に鉄砲や大砲の開発に乗り出し、やがて織田信長によって鉄砲衆として軍制が整備、織田・豊臣政権で天下統一事業に活用されるようになる。信長の鉄砲の師となった橋本一巴、細川忠興、徳川家康に仕え稲富流砲術の祖となった稲富一夢など著名な砲術師が次々現れ堺や根来、国友など製造拠点が登場。遅れて1570年代半ばから東国諸国でも戦争に使われるようになり、天正年間(1573~92)、大量に鉄砲が戦争に投入されるようになり急速に広がっていった。
実戦の中で格段の進歩を遂げた日本製鉄砲・大砲は豊臣政権による朝鮮出兵でも多大な効果を発揮したが、当時の朝鮮は長く続く平和で軍事技術が大きく遅れていたことから、日本製鉄砲の技術導入を最重要課題にして日本兵捕虜を積極的に懐柔・登用する政策に出る。宣祖二十八年(1595)ごろ国内での開発に成功し十七世紀初頭には日本式火縄銃が朝鮮でも量産されるようになり、当時侵攻しつつあった女真族(後の清王朝)との対外戦争に元日本兵の指揮の下で活用され、明と清との戦争では明側に朝鮮製の日本式鉄砲が輸出されたという。
一方、日本では朝鮮出兵から大坂の役にかけての時期に鉄砲・大砲の製造がピークとなり国友など鉄砲鍛冶は最盛期を迎えるが、その後の平和な時代の中で鉄砲の需要は大きく下がったあと一定のまま推移し、鉄砲技術の専門家である砲術師も世襲され身分制度の中に組み込まれていった。江戸時代は戦国時代以上に大量の鉄砲が出回った時代だったが、鳥獣を狩る狩猟と害獣を退治する農業に主な用途は限られ、欧州のような大幅な技術革新が行われることはなかった。次の鉄砲伝来は幕末のことになる。
鉄砲伝来については史料の少なさから様々な説が現在でも唱えられており、これも多くある説の一つではあるのだが、通説として広まっている説が実は根拠があやふやで、少なくとも正しいとは言い難いことを明らかにしつつ、史料に基づく丁寧なアプローチをしている点で非常に信頼できる論理展開であると思う。同氏も書いている通り鉄砲伝来を巡っては「水掛け論の様相」であるそうなので、少なくとも鉄砲伝来についての通説は大いに疑わしいが、だからといって真実はよくわからない、という状態にあるということを理解しておくだけでも大いに有益だろうと思う。
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歴史家って文献主義が多いですからね。
鉄砲伝来は「天文十二年(一五四三)の八月、種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられた」「鉄砲は種子島から紀州(和歌山県)の根来、泉州(大阪府)の堺、さらに畿内や関東地方へひろまった」というのが通説だが、これは実は確かな根拠があるものではない。その「鉄砲伝来」の怪しい通説について史料を元に批判し新たな視点を提示する研究者に宇田川武久氏がいる。その宇田川氏の二冊の著書「鉄炮伝来――兵器が語る近世の誕生 (講談社学術文庫)」「真説 鉄砲伝来 (平凡社新書)」から、鉄砲伝来について簡単にまとめ。同氏は当時の記述に従い鉄炮(火へんに包)を使っているが、ここでは通用に従い引用部分含めて「鉄砲」とする。
「天文十二年(一五四三)の八月、種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられた」という説明の根拠史料となっているのは「鉄砲記」という書物だが、これは慶長十一年(1606)、種子島久時が父時堯の功績を称えるために禅僧南浦文之に書かせたものだ。種子島に流れ着いたポルトガル商船の商人二人と中国人五峰を介して交流した種子島時堯はポルトガル人から鉄砲の極意を学びそれを習得、百発百中の名手となって配下の鉄匠に製造方法を学ばせ、製造された鉄砲を使って鉄砲の名手を多く育成、各地に鉄砲を広め、それから六十年で日本中に鉄砲は広がった、種子島時堯の功績は偉大だという内容である。
また、ポルトガル人が鉄砲を伝えたという別の記録にイエズス会士ジョアン・ロドリゲスの「日本教会史」があるが、これはロドリゲスが日本追放後の1620年代にマカオで編纂されたもので、1561年生まれのロドリゲスが日本滞在中(1573~1610)に聞いた話を元にした記載であった。
1543年以前に鉄砲が伝わった記録は残っていないことから、この年代は間違いないと思われるものの、日本に伝わった鉄砲は西欧式火縄銃とは違い東南アジアの火縄銃と構造が類似していること、当時東アジア地域一帯で倭寇が積極的に活躍しており五峰とは倭寇の頭目王直の別名であることなどから、ポルトガル人ではなく倭寇が東南アジア式の火縄銃を種子島に伝える主体的役割を担っていたと考えられている。当時の倭寇は中国人と『西国諸国のほとんどの地域、すなわち薩摩、肥後、長門、ついで大隅、筑後、博多、日向、摂津、紀伊、種子島、豊前、豊後、和泉の日本人が参加していたという。』(「真説 鉄砲伝来」P46)
さらに、その後日本中に広がった鉄砲は種子島式の鉄砲だけではなく独自の様式のものが多々見られることから、1543年の種子島への鉄砲伝来後、その種子島式の鉄砲が全国に伝播したのではなく、倭寇や商人の手によって『九州や西国地方の沿海地に波状的に鉄砲が伝来し』(「鉄炮伝来――兵器が語る近世の誕生」P203)、お互いに影響を及ぼしつつ独自に発展したとされている。『これまで唯一のように思われてきた種子島への鉄砲伝来は、数多くあったひとつの事例にすぎないのである』(「真説 鉄砲伝来」P96)
伝来後すぐに軍用として使われたわけではない。まずは物珍しさから有力者間の贈答品として、続いて狩猟用として使用され、やがて鉄砲を武器に転用することを考案した人々が砲術師となって研究開発を進め、軍用にたる道具として戦術・技術革新が進んだ結果、永禄年間(1558~1570)から西国諸国で本格的に使われるようになった。具体的にはまず島津氏、続いて大友氏、毛利氏の順で特に大友氏は本格的に鉄砲や大砲の開発に乗り出し、やがて織田信長によって鉄砲衆として軍制が整備、織田・豊臣政権で天下統一事業に活用されるようになる。信長の鉄砲の師となった橋本一巴、細川忠興、徳川家康に仕え稲富流砲術の祖となった稲富一夢など著名な砲術師が次々現れ堺や根来、国友など製造拠点が登場。遅れて1570年代半ばから東国諸国でも戦争に使われるようになり、天正年間(1573~92)、大量に鉄砲が戦争に投入されるようになり急速に広がっていった。
実戦の中で格段の進歩を遂げた日本製鉄砲・大砲は豊臣政権による朝鮮出兵でも多大な効果を発揮したが、当時の朝鮮は長く続く平和で軍事技術が大きく遅れていたことから、日本製鉄砲の技術導入を最重要課題にして日本兵捕虜を積極的に懐柔・登用する政策に出る。宣祖二十八年(1595)ごろ国内での開発に成功し十七世紀初頭には日本式火縄銃が朝鮮でも量産されるようになり、当時侵攻しつつあった女真族(後の清王朝)との対外戦争に元日本兵の指揮の下で活用され、明と清との戦争では明側に朝鮮製の日本式鉄砲が輸出されたという。
一方、日本では朝鮮出兵から大坂の役にかけての時期に鉄砲・大砲の製造がピークとなり国友など鉄砲鍛冶は最盛期を迎えるが、その後の平和な時代の中で鉄砲の需要は大きく下がったあと一定のまま推移し、鉄砲技術の専門家である砲術師も世襲され身分制度の中に組み込まれていった。江戸時代は戦国時代以上に大量の鉄砲が出回った時代だったが、鳥獣を狩る狩猟と害獣を退治する農業に主な用途は限られ、欧州のような大幅な技術革新が行われることはなかった。次の鉄砲伝来は幕末のことになる。
鉄砲伝来については史料の少なさから様々な説が現在でも唱えられており、これも多くある説の一つではあるのだが、通説として広まっている説が実は根拠があやふやで、少なくとも正しいとは言い難いことを明らかにしつつ、史料に基づく丁寧なアプローチをしている点で非常に信頼できる論理展開であると思う。同氏も書いている通り鉄砲伝来を巡っては「水掛け論の様相」であるそうなので、少なくとも鉄砲伝来についての通説は大いに疑わしいが、だからといって真実はよくわからない、という状態にあるということを理解しておくだけでも大いに有益だろうと思う。
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歴史家って文献主義が多いですからね。