気まぐれ何でも館:(525)山崎方代(伽葉)(1)
  
 山崎方代略歴:山梨県東八代郡右左口村(旧中道町、現甲府市)に生まれる。1929年(昭和4年)には右左口尋常小学校(現中道南小学校)を卒業。1937年(昭和12年)には横浜へ移り、職を転々とし1941年(昭和16年)7月には陸軍東部第77部隊へ入隊。翌年には野戦高射砲第33大隊一等兵として出征し南方方面で戦い、ティモール島クーパンの闘いで戦傷で右目を失明。
1946年(昭和21年)には復員し、傷痍軍人の職業訓練で習った靴の修理をしつつ各地を放浪する。山下陸奥の歌誌「一路」へ投稿して文芸活動も再開し、同士と「一路」を脱退し、1948年10月には「工人」を創刊する。また、1954年(昭和29年)創刊の「黄」や、1949年結成の「泥の会」の同人誌「泥」などへ短歌を寄せている。1955年(昭和30年)には山上社から第一歌集『方代』を発表。1971年(昭和46年)には「寒暑」を創刊。1975年(昭和50年)には「短歌」昭和49年9月号掲載「めし」で第一回短歌愛読者賞受賞。晩年は鎌倉で過ごし、1985年(昭和60年)8月19日、肺がんによる心不全のため71歳で死去した。
 1988年(昭和63年)、親交のあった大下一真らによって研究誌「方代研究」が創刊される。また、大下らの手によって、毎年9月の第1土曜日、瑞泉寺で方代忌が営まれている。
 特定の結社に属さず、身近な題材を口語短歌で詠んだ。鎌倉に住む歌人吉野秀雄や唐木順三とも交友があり、しばしば土産物を携えて訪ねたという。関係資料は山梨県甲府市の山梨県立文学館に所蔵されており、常設展でも展示されている。また、生家跡地には中道往還の右左口宿や円楽寺など周辺の歴史的景観と合わせた観光拠点とするため、歌碑の移設や東屋を設置する計画が出されている。(Wikiより抜粋)
  
 牛殺しの花がかさなりかまくらの旧街道をうずめつくせり
  (足立註:牛殺しの花=うの花)
  
 あさなあさな廻って行くとぜんまいは五月の空をおし上げている
  
 幸は寝て待つものと六十を過ぎし今でも信じています
  
 焼酎にレモンを落しホクホクと日のあるうちに寝てしまうなり
  
 笛吹の河石の面に刻まれし涙の歌よここにありしか
  
 柿の木に礼をつくして柿の実を梢に三粒もぎ残したり
  
 柿の木の梢に止りほいほいと口から種を吹き出しておる
  
 はじけたる無花果の実を食べておる顔いっぱいがキリスト様だ
  
 窓ぎわの実生の柚子が実をつけぬ泣きたいような気持でもある
  
 さいわいは空の土瓶に問いかけるゆとりのようなもののようなり
  
 六十になればなればとくり返し六十歳を越えてしまえり
  
 桑の実が熟れている桑の実は少年の日の御八ツなりけり
  
 胡座の上に乗っておるのは末成の南瓜のような老人である
  
13.1.12 抱拙庵にて。