東京新聞、2012年10月6日 夕刊


 在日本イスラエル大使館が、愛知県立瑞陵(ずいりょう)高校(名古屋市瑞穂区)にオリーブの木を植樹する。同校の前身は第二次世界大戦中に多くのユダヤ人を救った外交官、杉原千畝(ちうね)(一九〇〇~八六年)の出身校。感謝のしるしの植樹式は十六日に開かれる。 (谷悠己)

 千畝は岐阜県八百津町生まれ。税務官だった父の転勤で名古屋に住み、瑞陵高の前身、旧制県立第五中で学んだ。リトアニア領事代理だった四〇年、ナチス・ドイツの迫害から逃れようとした六千人以上のユダヤ難民に日本通過ビザを独断で発給した。

 瑞陵高は二〇〇〇年の生誕百周年以降、千畝の顕彰活動を本格化。愛知万博でリトアニア館と交流を持ったり、同窓生からの寄付金で在校生をアウシュビッツ強制収容所跡のあるポーランドへの研修旅行に派遣したりしてきた。

 こうした動きを知ったイスラエル大使館は今年迎えた日本との国交六十周年にちなみ、友好のシンボルであるオリーブの植樹を提案した。

 植樹場所は、旧制五中時代の校内にあった縄文古墳を模したモニュメント。食物科がある特色を生かし、イスラエル料理の研究や植樹したオリーブの実を調理実習に使う構想も温めている。

 吉沢雅之校長は「千畝の活躍の原点は五中時代に習得した語学力だったと、よく話している。尊敬すべき先輩がもたらしてくれたイスラエルとの縁を大事にしていきたい」と話している。

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杉原千畝は戦後外務省に独断でやったという理由で、1947年に外務次官より退職通知があり、外務省を依願退職せざるを得なかった。

WIKIより。

「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という悪意に満ちた中傷から、ニシュリによる千畝の名前の照会時の杓子定規の対応まで、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは、河野洋平外務大臣による名誉回復がなされるまで一貫していた。こうした外務省の姿勢にまっ先に抗議したのは、ドイツのジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンだった。ダンプマンは、旧西ドイツのテレビ協会の東アジア支局長を務め、1974年から1981年まで東京に在住していた。千畝への献辞の付いた『孤立する大国ニッポン』のなかで、「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに、追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか(このような例は決して他にないというのに)、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい」 と、ダンプマンは抗議したのである。それは、千畝がまだヤド・ヴァシェム賞を受賞(1985)しておらず、幸子夫人による回想録の初版(1990)も出版されていない、1981年(昭和56年)のことであった。

1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。千畝の名前が世に知られるにつれて、賞賛とともに、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られるようになった。

同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われるも、心臓病と高齢は杉原の海外渡航を許さず、千畝に代わって四男・伸生(のぶき)が出席した。1986年(昭和61年)7月31日、86歳でその生涯を閉じる。