気まぐれ何でも館:(501) 岡野弘彦(海のまほろば)(9)
  
 砕かれし額(ひたひ)より血をしたたらす幾たりの顔が夜の闇に顕(た)つ
  
 ほつかりと見ひらきて何をみてをりし意識なき眼に澄むあをき空
  
 たのみゐし山の木の実のおほかたは鳥けだものの餌となりゐつ
  
 川ほそく痩せて流るる峡に入り沢蟹を掘る子の糧(かて)のため
  
 雪ののち晴れきはまりし村の道ころせし犬をわかつ声する
  
 幼き日祖母に聞きたる遠き世の咄のごとくいま飢ゑてゐる
  
 ひつそりと土間の闇より立ちあがりいでゆきし人をふたたびは見ず
  
 蛇・蛙地を這ふもののおほよそを喰(くら)ひつくしてなほ生きむとす
  
 うらうらと冬陽の匂ふ樹の下に眠るとみえて命絶えゐる
  
 雪の下に埋(うづ)もれはてて村ひとつほろびしことを世がたりにせよ
  
 壁土を湯にのばしつつ喰はむとす粒だつものは喰ひつくしたり
  
 冬空のあをくかがやく光りすら眼に耐へがたし命おとろふ
  
 今朝死にし母のむくろに寄りてゐる子らは幾日を命保たむ
  
 人らみな死にたる家になほ生きてもの噛む鼠あはれ生きゐよ
  
 さすらひて村に入りこし旅人をひそかに殺すこと計りゐる
  
12.7.28 抱拙庵にて。