★ 02.6.8 葬式の話 (出典:「ブッダ最後の旅」中村元訳、岩波文庫)
「尊い方よ。修行完成者のご遺体に対して、われわれはどのようにしたらよいのでしょうか?」「アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。正しい目的を実行せよ。正しい目的に向かって怠らず、勤め、専念しておれ。アーナンダよ。王族の賢者たち、バラモンの賢者たち、資産者の賢者たちで、修行完成者(如来)に対して浄らかな信をいだいている人々がいる。かれらが、修行完成者の遺骨の崇拝をなすであろう。」 尊い方とは晩年の釈迦である。多聞第一(釈迦に常に付き添って、人として最も釈迦のことばを多く聞いた)の弟子阿難(アーナンダ)が釈迦の死後の供養の仕方について質問しているのである。修行して悟りを開くことを目的とする出家者は、遺骨供養にかかわらず、自分の修行に専念し、遺骨供養は一般の人にまかせよと釈迦は言っている。
さて在家の普通の人はどうなのだろう。近頃大きな霊園があちこちにできている。そのうち、日本中お墓だらけになるのではないか、という気がしないでもない。お墓は一説によると天国のゴミ捨て場にほかしてあるそうである。嘘か本当か知らないけれど。今のああいうお墓が、現今盛んに言われている循環型でないことは確かだ。お骨は粉にして花の肥料にしたりとか、なんぼでも考え方はあるはずだ。花が悪人病になったりしても困るのだが。
お墓に入る前に葬式をするが、葬式にはかなり金がかかる。戒名など自分で適当につけたらいいようなものまで専門家につけてもらうとすごい金がかかる。ちなみに私の戒名は数楽院抱拙居士と勝手に決めている。父はなんとか大居士で、いまなら一千万位かかるんと違いますかと葬式屋はいっていた。天台宗の葬式に来た坊主はうちの檀家には大居士は一人もいませんといっていた。あきれたはなしだ。要するに商売になっている。そして少数だが、ちゃんとやっている人はやっているのだが、昔のお寺の和尚さんがやっていたカウンセリング的なこと、教育的なことなんかどっかにいってしまって、境内を削って駐車場を経営したり、厳しい世間の荒波にもまれている普通の人にはまるでピントはずれの、おネムなお説教などをしたりしている。そのくせオームなどが問題になると、あれは宗教じゃないとかなんとか批判するが、あんたらがさぼってたから悩める若者の行くとこがなかったのよ、ほんまにね、といいたくなる。人間は輪廻転生する。これはほぼ間違いない。臨終のとき、いってらしゃーい、またね、って感じで誰も死を恐がりもしなければ、悲しみもしないという時代はもうすぐそこにきているのだけれど、損になることはどこの世界でも当事者はいわないのね。真理を語る専門家はお金の勘定に忙しいらしい。釈迦が化けてでなけりゃいいけれど。まっそんな品のないことはする人じゃないと思うけれど。