★03.4.10 キリスト教「異端」について
  
 C.S.クリフトン「異端事典」(三交社)を元にして考えてみよう。異端者とは地動説を主張したガリレイや、無限宇宙論を主張して火あぶりになったブルーノのように、時代に先んじていた者であるという思い込みは必ずしも正しくない。確かに「宗教は椰子の樹のように、頂上で繁茂する。枯れて落ちていく葉はすべて正統派であり、新しい葉はすべて異端者である」という見方はある一面をとらえてはいる。

 だが初期の女性異端者は、男性の教会聖職位階制度の外に霊的権威を置いたゆえに排斥されたし、一世紀のグノーシス主義者(簡単にいうと霊的真実の個人的理解を尊重し、彼ら独自の啓示や教説や預言の書を作成した一派)は教会より個人の霊的経験を重視する、教会には不都合な故に異端者とされた。しかし彼らを今日の目から見ると、富裕でひとりよがりな教会に対する改革者であり、その意味では敵対者であると考えられる。さらにかの妖術裁判では、農村の女性治療師に対する都市男性職業医による弾圧であり、財産没収による多額の金銭の獲得が目当てであった。つまり結局頂上で繁茂することはなく、切り捨てられた新しい葉であり、また椰子の樹の隣の、別の木がとばっちりを受けたということもあったのである。こうした時代以降、信教の自由という考え方がいくつかの地域で受け入れられるようになり、国教分離の社会が構築されていく種子とはなったのであるが。


 世界のおもな宗教のなかで、キリスト教とイスラム教だけがかなりの規模で異端者と戦いを繰り広げてきた。たとえば仏教ではどんどん分派してゆき、みな仏教と称している。大乗仏教では、釈迦だけでなくその後の覚者の著作も仏典としている。浄土真宗のように釈迦の教えの中心である八正道の修行すら、自力(はからい)として捨ててもである。また何世紀にもわたりカソリックと「異端者」の言葉を投げ合ったプロテスタントも、やがて教会の存続が確立した後では、多くの分派を生み出した。一枚岩を誇るカソリックは破門することによって正統?を守っているが。キリスト教とイスラム教は何を「行うか」より、何を「信じる」かをとりわけ重視し、特にキリスト教は「信仰告白の宗教」として、その核となる神の教えについて様々な解釈の中から「正しい」として定められた教説や信条を広めねばならなかった。当然「正しくない」解釈は異端とされるわけである。

 キリスト教は教会の歴史の当初において、同じ仲間うちでイエス・キリストとはいかなる者か、福音書の言葉のどの箇所がもっとも重要か、という問題について主に論争していた。これはその範囲にとどまっている限り悪いことではない。むしろ自らの信仰を深めるように作用するであろう。したがってこの時期には正統と異端は明確に定められておらず、判然とはしていなかった。たとえば初期キリスト教徒、それもとりわけ異教からの改宗者は、イエスが死すべき肉体の持ち主であることを決して信じようとはしなかった。異教の神々は時に死すべき人間の姿をとって仮に顕れても、目的を成就するや消え失せてしまうもので、この神々には死も復活もなかったからである。その一方で、イエスは本当は死すべき人間であり、その稀有なる徳ゆえに神から養子に迎えられ、神の息子と宣告された者であると信じるキリスト教徒もいた。三位一体の概念を受け入れたものの、どうして父なる神と子なるイエスが、ともに永遠不滅であるのか納得できないキリスト教徒もいた。また自分の在命中かあるいは近い将来にキリストの再臨を期待した初期キリスト教徒たちは、今で言う聖書と定められたものを持っていたわけではない。どれが聖パウロの著作やヨハネの黙示録と肩を並べるものであるかを教会が決定するまでには、しばらくの時を要したのである。

 しかし四世紀ローマ帝国がキリスト教を国教とし、529年にはついに全ローマ臣民はキリスト教に改宗するように命じられる。このようにしてキリスト教と世俗権力が結びつくというか、キリスト教がローマ帝国を支配するに至ると、東方のギリシャ正教であれ、西方のローマ・カソリック教会であれ、既存の教会を批判する者がしばしば異端者とされた。たとえその者が真摯な気持ちで教会を良くしようとし、あるいは真の理念に立ち戻らせようとしていたとしてもである。たとえば清貧を旨とするアッシジの聖フランチェスコの流れを汲む修道士たちの教団は、異端として死と隣り合わせの危険な道を歩んだのであった。

 現在では異端に対する糾弾は、教義上の論争のみにとどまり、投獄や拷問や死の恐れは、キリスト教ではないであろう。むしろ他宗教の容認や、かつての強制、弾圧を謝罪することさえある。世界の各宗教が棲み分けし、共に学び合うようになることを祈らずにはおれない。