★04.4.2 宮沢賢治について(出典:山折哲雄「宗教の力」PHP新書)
日本人は、というか大概の国の人はそうであろうが、宗教的に過激な行動をする人を必ずしも受け入れない。預言者は故郷では受け入れられないと言うように、身近な人に対しては特にそうである。
宮沢賢治(1896~1933)は今でこそエライ人ということになっているが、彼は体が丈夫でないのに花巻という厳しい寒さの地で、日蓮宗の信者として雪の日も薄着でお題目を唱えて歩く寒行をやっていたそうで、土地の人々は「き○が○賢治」とあざけっていたという。延暦寺の千日回峰行のようにシステム化された荒行をする人は、生き仏のように尊敬されるのであるが。外国の例でいえば、アッシジのフランチェスコ(1181,2~1226)のような人は、一般の人のみならず彼の属する既成教団からも胡散臭いものと見られたようである。私は一種の正義に対する嫉妬じゃないか、と思っている。
賢治の晩年に使っていた「黒い手帳」に記されて有名な「雨ニモマケズ」の詩の最後の方に「デクノボウになりたい」という趣旨の言葉が記されているが、最近の研究によると、このデクノボーは斉藤宗次郎という実在したキリスト教徒がモデルになっているのではないか、と言われている。
斉藤という人は、やはり花巻の人で、曹洞宗の寺に生まれ、師範学校を出て小学校の教師になった人で、ちょうどその頃、無教会主義のキリスト教で後に近代思想史に大きな足跡を残した内村鑑三(1861~1930)の文章を読んで大きな影響を受け熱烈なファンになった。内村は非戦の思想を説いて日露戦争反対の立場を取っていた関係で、斉藤はその小学校で非戦の思想を教え始める。やがて当然のごとく小学校をクビになって、牛乳配達、次に新聞配達をするようになり、これが次の天職となった。新聞を届けながらキリスト教の宣教活動をやり、10メートル歩いては祈り、10メートル歩いては感謝しながら、一日40キロの道を配達して歩いたという。そのうち賢治と知り合うようになり、新聞配達後賢治が勤める花巻農学校に立ち寄って色んなことを話し合ったことが、戦後、斉藤の没後に彼の詳細な日記が出てきて分かった。
斉藤は新聞配達の途次、子供にはあめ玉を、病気の人には枕頭で慰めの言葉をかけていたそうで、まさに「東ニ病気ノコドモアレバ / 行ッテ看病シテヤリ / 西ニツカレタ母アレバ / 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ・・・」という生活を地でやっていたわけである。そういうことから賢治は過激な宗教活動をやっている半面、宗教とか宗派を乗り越えていくような所があり、そういう自由な精神の運動の中から、彼の童話の世界が紡ぎ出されていった。中でもキリスト教の影響が色濃くにじみ出ているのが、名作「銀河鉄道の夜」であろう。