★04.5.3 生きること、考えること(出典:池田晶子「あたりまえのことばかり」トランスビュー)
  
 標記の本の一部を参考にして、人生の奥の院に至る道程である「生きること、考えること」について考えてみよう。

 人間は生きて死ぬ。死ぬまで生きている。それなら楽しく心豊かに生きたいものだ。そのためには魂の世話を先ずすることである。教育も知恵を磨き、各々の魂をそれ自身の世話へと振り向けていくことを目的としなければならない。ところで魂とは何かというと、人は精神と肉体から成るが、その両者、特に精神の作用を司るものとして魂というものがあり、生命の存続を保ち、魂のあり方はその人の人生を決定する・・・そういうものである。

 人生とは生まれて生きて死ぬことである。この世界にどういう訳か気がつくと自分が生まれてきていて、ここにいて、人生について考えたりしている。つまり生きて死ぬとはどういうことか、あるいはどう生きて死にたいかなど。更にこの不可解な大宇宙における人類の意味と位置は何かと思いをめぐらす。魂のことは、感じ、考え始めるときりがなく、奥がどこまであるか分からないような不思議なものである。

 生命とか宇宙とかは神がそういう風に創造したというのでは納得出来ない人たち(神が創造したかどうかは信じるにしても信じないにしても)が、ここにある生命とか宇宙とかの不思議の一端を解明しようとした。それが科学的精神である。我々が科学を持ったのは、この不思議を知りたかったからである。ところがそういう純粋な認識欲から離れていって、科学技術は便利だからというのでどんどん開発を進めていき、ついには科学的方法によって全てが分かると思い始め、謙虚さを失った。これは科学の担い手が身分としての、あるいは精神の貴族から大衆化していったことも関係していると私は考えている。

 デカルトは物心二元論、つまり物質と精神は別々だ、だから別々に研究すべきであると主張した。ところがハイゼンベルグの不確定性原理が発見され、量子つまり物質を観測しようとすると(精神)、観測者が量子に影響を与えて、量子の位置と運動量を両方同時に決定することが出来ないことが分かった。精神と物質はそのように不思議なものである。科学も宗教も宇宙や生命の不思議を認識する一つの方法に過ぎない。別の言い方をすると、いくつかの方法があり得、認識する切り口はいくつもあり得るということである。科学者も宗教者もこの自覚を常に持っているべきである。簡単に言うと、宗教は直感的に信じるという方法で、科学は論理的に実証するという方法である。別な言い方をすると、宗教の信仰は知性を放棄すること、科学というのは逆に知性を駆使することである。分析してそれを組み立て直して総合する知性が科学的知性である。

 哲学は理性を使う。理性とは、そのことがどういうことであるかを知ろうとする働きのことで、事柄をその本質において知ろうとすることである。人生如何に生きるべきかと問う以前に、その生きているとはどういうことかを問題とする。いくら考えても先があることをきちんと考え続けていく。そうすると悩まなくなる。そういう自覚的に生きる人が増えていくと、社会は必ず変わる。宗教的信仰において不思議を信じることによって解決したことは別にかまわないのだが、不思議をいつしか忘却していったことをもう一度思い出すことと、何でも分かると思いこんでいる浅薄な科学技術万能主義を反省することに哲学は寄与することが可能である。

 人が自分を自分と思っているその自分というのはそれほど明確なものでないらしい。自分と宇宙、自分と他人というのはうまく分けられない、境目があいまいなものである。そして万物は流転しているらしい。この絶対的不可解さに気がつくと、人はおのずから倫理的になる。分からないということを忘れて、何でも分かった気になるから人は横暴、傲慢になる。分からなさを前にしたときの謙虚さということ以外に、我々の倫理性というものは発生し得ないとすら言える。個人と全体、自分と他人とはどうもうまく分けられないということに気づくと、宇宙的な視野から自分を見ることになり、争いは起こらない。個人の人生においても、その魂の不思議さをより自覚していく過程が、この人生を生きるということなのだということが分かってくる。この絶対不可解の自覚がおそらく人生の意味である。考えることによって固定観念から一つ一つ自由になっていく。今は大変な時代になっているが、だからこそ人はじっくり考える必要がある、ということが分かるであろう。