★05.6.29 人生の成功とは何か
田坂広志の同名の著書(PHP)に従って述べる。
人生で成功しようとする人に三つの思想がある。その一つは勝者の思想である。人生を競争と考え、その競争において勝者となることを人生の成功と考える思想である。特に日本では物心がついたときから、心に刻みつけられる。受験競争は3歳位から始まっていると聞く。これは子供や、若い世代だけがこの思想の影響を受けているのではない。社会全体が競争社会に向かっている。国全体の構造改革の推進、社会への市場原理の導入、企業での競争原理の徹底。そうした大きな流れの中で、競争が社会を良くするという思想が世の中に広く浸透している。
競争社会の人間観は、競争に駆り立てなければ一生懸命努力をしない、ということである。人間は、素晴らしい夢を心に抱いた時、一生懸命に努力するという人間観が見失われている。
政府の政策は、国民が将来への夢を描けるものになっているか。企業の経営は、社員が未来への夢を抱けるものになっているか。残念ながら、世の中に溢れるのは「競争が社会を良くする」というメッセージだけであり、国民の生き甲斐、社員の働き甲斐を感じる希望に満ちたメッセージは聞こえてこない。「競争での勝者=人生の成功者」という発想は素朴さと分かりやすさゆえに多くの人が影響を受け、我々の心の奥深くに入り込んでいる。
競争の中で個性は抑圧されてきた。たとえ自分自身の個性を見出して自分の成功を目指しても、その生き方を貫くことは難しい。マスコミに溢れるのは「いかにして勝ち組になるか」というメッセージである。金と地位と名声を得ることが勝ち組になるということである。そのために自分を商品と考え、商品価値を高めるためにキャリア・アップすることを目指している。
しかし、この思想の限界は「勝ち組になれるのは、一握りの人間だけである」ということである。確かに高度経済成長の時代は全員の給料が上がり、全員が昇進するということが可能であった。しかし現在の低経済成長の時代には不可能である。
確かに若手の世代には、この思想は魅力的に映る。彼らには、まだ競争社会の勝敗が決まっていないからである。年配の世代は、期待と幻想よりも幻滅と寂寥を感じざるを得ない。年配になっても熱い言葉で「勝者の思想」を語る人がいるが、要するに勝ち組の人である。
勝ち組になれるのは一握りの人間ということ意外に、勝者になっても成功の喜びを感じることが出来ないという問題に直面する。果てしない競争をし続けることが求められるからである。もし勝者になっても、それはつかの間の喜びと安らぎが与えられるだけで、すぐに、更に厳しく果てしない競争へと駆り立てられる。つまり精神的な充足がやってくるよりも、精神の荒廃がやってくる可能性が高い。たとえば心のゆとりを失い、思いやりを失うことがある。また勝者の驕りが敗者になることへの不安から生まれてくる。競争社会は、人間同士を徹底的に競争させる社会であるため、人間同士の深い結びつきが生まれにくく、壊れやすい社会である。
こうして「果てしない競争」「精神の荒廃」「人間関係の疎外」という三つの問題は、企業だけでなく競争原理を導入した社会において生まれてくる事態である。
勝者の思想を抱いて歩むかぎり、「競争で勝者となれるのは一握りの人間だけである」「その競争に勝ったとしても、更なる競争に勝ち続けなければならない」「それらの競争で勝ち続けたとしても、本当の成功の喜びは得られない」という根本的な問題に直面する。そこで我々は勝敗に左右されない思想を求めるようになる。それが達成の思想である。人生において目標を達成することを人生の成功と考える思想である。
勝者の思想とは、他の登山家との競争をしながら誰よりも早く頂きに辿り着くことを喜びとする思想、誰よりも高い山に登ることを喜びとする思想である。これに対し達成の思想とは、他の登山家との勝敗にこだわることなく、自分自身のベストを尽くして登り続け、その山の頂きに辿り着くことそのものを喜びとする思想、自分自身が登ろうと考えた山の頂に辿り着くことを人生の成功と考える思想である。
達成の思想を心に抱くとき、我々は自分の貢献が高く評価されること以上に、その仕事が素晴らしい仕事になることに喜びを感じる。そのとき我々は、他のメンバーと力を合わせ、智恵を出し合い、励まし合い、その仕事が素晴らしい成果を挙げられるように努力を尽くす。その結果、仕事が成果を挙げるだけでなく、自分も含めて、その仕事に参加したメンバー全員が大きな喜びを得ることができる。
優劣競争が競い=切磋琢磨になり、互いに刺激し合い、腕を磨く良いライバル関係になる。ビジネスの世界で増えてきた「ウイン・ウイン」「コンペティション(競争)からコラボレーション(協働)へ」という言葉も、新しいパラダイムを模索するものであろう。
他人の目による評価を意識し、自分の力を誇示するのではなく、自分らしさの表現(自己実現)を大切にし、自分自身にとって本当に価値が感じられるもの、自分自身が自分らしいと感じられるものを探し、それを目標に定め、その達成のために努力するのである。
自分が本当は何を求めているのかを深く考えない思考停止に陥ると、たとえば必要な額を超えてひたすらに財産を増やすことを目指したりする、物神崇拝となりがちである。達成の思想においては自分が人生において本当に求めているものは何かを深く考えることになる。それには自分の自分らしさとは何かを考えることにもなる。この場合の人生の成功は、必ず自己探求に向かうことになる。その行き着くところが「清貧」であっても「清冨」であっても、それは深い自己探求の結果、自然に身に付いてくる生き方なのである。
勝者の思想が他者との戦いに向かう思想であるのに対し、達成の思想は自己との戦いに向かう思想である。我々が人生において精神のエネルギーを他者との戦いに向けて浪費するか、自己との戦いに向けて充填するかで精神の成熟に大きな違いが生まれてくる。確かに戦いの相手を自分自身に定めると、最も厳しい戦いが始まるが、精神的には最も迷いのない戦いに臨める。最も厳しい戦いという意味は、すべての問題を自分に原因があると引き受け、その解決のために自分がどう成長すれば良いか考えることになるからである。
ただこの達成の思想にも限界がある。まず人生において夢を実現できる、目標を達成できるとは限らないということである。世の中には「夢は必ず実現できる」「目標は必ず達成できる」というメッセージが溢れている。これらのメッセージは、実際に夢を実現した人や目標を達成した人のサクセスストーリーであり、学ぶべきことは多いが、人生の現実は必ずしもその言葉通りにはならない。人生には「努力」「才能」「境遇」に加えて「運」というものがあるからである。不可抗力とも思える事故によって夢を実現できないことは人生の厳然たる事実として有り得る。
それと人生は続くということ。どれほど成功の物語を積み重ねても、その後に人生は続く。残された人生において達成の喜びを抱き生き続けていくことはできない。
また目標を達成すると、更に高い目標に駆り立てられる。大きな目標を掲げ、挑戦し続ける生き方は意欲的と賞賛されるが、常に欠乏感(これで良しとしない)があるから意欲が湧いてくるわけである。
この欠乏感にどう処するか。人間の意欲には二つの種類がある。欠乏感から生まれてくる意欲と、感謝から生まれてくる意欲である。後者は自分は小さな儚い存在だという、むしろ欠乏感が生まれてくるような認識から生まれてくる意欲である。この世に生をうけ、かけがえのない命を与えられた。それだけで自分は恵まれた存在である。自分は祝福された存在である。だから、この命を大切に使いたい。この感謝からの意欲によって高い目標を抱く時、達成の思想を超え、その先にある成長の思想へと深化していく。
成長の思想を特徴づけるのは、人生の困難と格闘することによって、人間として成長すること、そして人間として成長し続けていくことを人生の成功と考える思想である。仕事の困難を通じて人間を磨くともいえようか。我々が一生懸命仕事をするのは、人間を磨き成長していくためで、またそれが楽しいのである。
この思想を抱くと、人生における困難の意味が逆転する。否定的な意味を持つと思われた苦労や困難、失敗や敗北、挫折や喪失というものが、肯定的な意味を持つようになる。
達成の思想においても、苦労や困難が大きければ大きい程達成の喜びも大きくなる。しかし、現実の人生において否定的な出来事は必ずやってきて、それを必ずしも乗り越えて目標を達成できるとは限らない。成長の思想では、そういうときそれを糧とすることができる思想である。人生における困難とは、我々が自らの可能性を拓いていくための、我々が成長していくための素晴らしい機会に他ならない。
我々は人生において、大きな夢を描く。それは困難に挑戦できるからである。我々は自身の成長のために大きな夢を描き、その実現のために歩む。もちろん夢は多くの人のためになる夢を抱く。ただその夢を実現するために、様々な困難に遭遇し、多くの苦労を味わい、一人の人間として成長できたなら、それは最高の報酬であり、結局自身のためになっているのである。
我々は「人類・自然との共生」という見果てぬ夢を持とう。それは叶わぬ夢ではない。自分を成長させ、人々と連帯することにより、人類が成長することができ、そしていつかこの世に天国が実現する夢である。
勝者の思想には勝利する強さ、達成の思想には達成する強さが求められる。こうした強さを賞賛するメッセージの洪水の中で、多くの人々が表面的には熱意を持ちながらも、心の奥深くで敗北感と挫折感を味わっている。必ず勝利する、必ず達成するという強さではなく、必ず成長するという強さは誰でも持ちうる。諦めない限り、千里の道も一歩から、というように一日一歩、二歩下がっても三歩進む・・・とにかく一歩一歩進むことは出来るのである。諦めつつも、十日に一歩、一月に一歩でもいいのである。我々が自分自身の中にあるその強さに気が付いた時、何故か静かな勇気が湧いてくる。
素晴らしい人物にならなくてもよいのである。一日生きたとき、一日分成長する、ということでよいのである。一日が充足しておればよいのである。無為に一日を過ごしてしまってもよいのである。やがて一歩進めばよいのである。一日を生き切る心構えを身につけることは大事である。単に生きるのではなく生き切る、つまり悔いが無いという思いが起こればよいのである。また悔いることがあってもよいのである。しかし、いつか悔いのない一日を生き切ることが出来るように、成長していけばよいのである。
この世界は、生命力に満ちて、そこに在る。成長を求めて、そこに在る。光り輝いて、そこに在る。この自分もまた、生命力に満ちて、ここに在る。成長を求めて、ここに在る。光り輝いて、ここに在る。必ず終わりがやってくる、このいのち。過去世で不充分だったことをこの世で克服するために与えられた、このいのち。いつ終わりがやってくるか分からないいのち。このかけがえのないいのちを精一杯に生き切ろう。このかけがいのない一日一日を、精一杯に成長していこう。
人生の旅の途上で巡り会う人々は、深い因縁を持ち、巡り会う景色も深い意味を持っている。この旅に出ることが出来、少しでも成長することが出来た時、私は深い感謝を抱く。この旅の最期の一瞬に、悔いることのない一生を過ごせたことを感謝するだろう。