★ 02.6.26 「真言立川流」 (出典:「さとりの秘密」金岡秀友、筑摩書房)
  
 日本人は、つい最近まで性に対して常にはじらいとつつしみをもってきた。枕絵と称するようなポルノグラフィーも以前から描かれてきたが、常に私生活の片すみで、ひそかに、はじらいをもって受け入れられてきたようである。それもヨーロッパのものとは質的に異なる慎ましさがあったと思われる。ヨーロッパ人の人間追求は、キリスト教の原罪観と不即不離なところがあり、いかに極端な人間肯定の書(ボードレールやサドの作品など)のように見えても、決して単純素朴なものではなく、一度は人間否定の教えを知った上での屈折した肯定の書なのである。つまりえげつないところがある。日本では、宗教はおだやかにその道を説き、性はかるく人生の楽をうたうものであったが、秘められた、閉ざされたものであった。


 インド最後期の仏教に次のように説くものがある。肉体は大河や大陸をその中に映しているところのマンダラにほかならないとし、人間の身体の左側には女性を意味するララナーなる神経があり、右側には男性としてのラサナーという神経がある。この二つが交じりあうところ、すなわち生殖器のあるところが、大楽のあるべき場所であり、この大楽のあるべき場所を通じて悟りの心が上へ昇り、脳髄にまで達するときさとりが完成されるという。しかし、さとりの心が大楽の場所へ下降することは厳に戒められている。さとりの心が下へ降り、大楽の場所から外へ出る(射精される)とき、それは単なる凡夫の欲情になってしまう。従って接して漏らさずということが大事であるという。


 真言密教には右道密教と左道密教がある。立川流は左道密教の系統で一般に邪教とされる。密教教理と陰陽思想を合わせ、阿と吽、理と智をそれぞれ男女両性に配し、その不二(ふに)なること(交会)をもって煩悩即菩提、即身成仏の境地を唱える。はっきりいえば人間存在の形式の一つである男女間の愛欲を肯定した。中世の真言宗の各流派に影響を与えたといわれる。理趣経が立川流をつくったと見られている。理趣経とはすべての実体性を否定し(空の立場)、その上に開ける自由な境地(般若の理趣)にこそ人間本来の清浄なるものが発露すると説いた。その底には煩悩肯定の思想がある。結論として、悟りを開けば全ての行為が(あの行為も)仏の行為となるとされている。しかし立川流に対し理趣経は責任を負う必要はないとと考えられる。男を不動明王とし、女を愛染明王に配し、二根交会、赤白和合をもって「大仏事を成ず」などという考えは理趣経のどこにもないからである。


 私は男女の和合を色々理屈をつけるのではなく、お互いに純粋に楽しめばよいと考える。歌人の吉野秀雄は鎌倉アカデミアという無認可大学で「交合(まぐわい)をしなさい!交合をしなさい!」と講義中に言っていたそうである。私もそうしたいところだが、認可大学のつらさ・・・、次の歌(風の歌所収)を引くにとどめる。
  
  神々の まぐはひもかく ありけむや ともにむつみて わらはべのごと