★02.10.5 「山頭火について」 (出典:「日本怪僧奇僧事典」祖田浩一、東京堂出版)
種田山頭火(1882~1940)は萩原井泉水(せいせんすい)の主宰する「層雲」に属する自由律の俳人で、尾崎放哉(ほうさい)と並び称される井泉水の高弟であるが、一応出家である。一応出家というのは、四十四歳の時、妻の咲野と幼い息子を置いて熊本の報恩寺(曹洞宗)の望月義庵の許で剃髪、得度したことになっており、耕畝(こうほ)と名乗る禅僧になり、堂守をしたりしていたが、やがて一笠一杖の流転の行乞の旅に出る。本人は「行乞(ぎょうこつ)」のつもりで宗教的な行の一つだと思っていたかもしれないが、実態は乞食と殆ど違わなかった。離婚した咲野や友人たちは、様々な金品を行く先の郵便局止めで送っている。
分け入っても分け入っても青い山
うしろすがたのしぐれてゆくか
笠へぽっとり椿だった
窓あけて窓いっぱいの春
鴉啼いてわたしも一人
まっすぐな道でさみしい
乞ひあるく水音のどこまでも
何を求める風の中ゆく
水を渡って女買ひにゆく
猫もいっしょに欠伸するか
さて、どちらへ行こう風がふく
この道しかない春の雪ふる
山羊はかなしげに草は青く
酒は目的意識的に飲んではならない、酔は自然発生的でなければならない。酔ふことは飲むことの結果であるが、いひかへれば、飲むことは酔ふことの原因であるが、酔ふことが飲むことの目的であってはならない・・・と何やら「其中(ごちゅう)日記」に書いているが、要するに酒が好きであった。
月が酒がからだいっぱいのよろこび
酔ひしれた眼にもてふてふ
酔うて戻ってさて寝るばかり
一杯やりたい夕焼空
酒がやめられない木の芽草の芽
酒がどっさりある椿の花
ひとり雪みる酒のこぼれる
ゆうぜんとしてほろ酔へば雑草そよぐ
酔ひざめの闇にして螢さまよう
酒を買ふとて踏んでゆく落葉鳴ります
ふる郷ちかく酔うている
酔ひたい酒で、酔へない私で、落椿
「山頭火はなまけもの也。わがままもの也。きまぐれもの也、虫に似たり、草の如し」と自ら記した如く、自由といえば自由、苦しいといえば苦しい、しかし多くの友人の援助もあって、何とか生きながらそういう彼にしか作れない句を作った。
からまつ落葉まどろめばふるさとの夢
酔へばさみしがる木の芽草の芽
椿赤く思ふこと多し
蓑虫もしづくする春が来たぞな
春風の蓑虫ひよいとのぞいた
寝ころべば枯草の春匂ふ
芸術とか学問とかは、平凡な人生を送っていてできるものはたかがしれたものかもしれない。激しく何かを求め、求める理想が高いとき、自分だけでなくまわりの者にも悲惨な結果を招くが、時代を経て理解されるということだろう。私も結構悲惨な目に会ってき、会わせてきたが、まだまだ平凡なものなのか能力のせいか、未だこれといったものはできていない。