さて、音楽での解釈のあり方について、ショスタコーヴィチ交響曲第5番を例にとって考えて見たい。
まず、「ムーティ指揮フィラデルフィア管によるショスタコーヴィチ交響曲第5番(EMIミュージック・ジャパン)」
を取り上げたい。このCDのジャッケットは最高に良い。よく言われるショスタコーヴィチの気難しさ、政治
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的思想、困惑、陰鬱さ等をストレートに表現しており、これで充分に芸術性が高い。一方、肝心の演奏
だが、ジャケットと裏腹にさらりとして楽曲の楽譜上の解釈を比較的忠実に守ったような演奏だ。多くの
リスナーが期待する「精神的な高ぶり、抑制と開放、内包的葛藤・・・」と言った類のメッセージが殆ど
感じられない。ムーティファンには申し訳なく、少し厳しい評価かもしれないが、音大の指揮科の卒業
試験なら「優」でしょう・・という感じだ。この楽曲の解釈として、純粋に音楽的な流れを考えて優雅 (?)
に演奏するのであれば、これはこれで1つの方向性であろう。でも、個人的には少し物足りない。
譜面(作曲家の演奏の指示)を無視してもここは、もう少し溜めて演奏して欲しいよな・・・と思う場面が
多くある。偏見かもしれないが、イタリア人にショスタコーヴィチの解釈は恐らく難しいだろうね・・・。
少し無理があるのかも知れない・・・。まず得意分野では無さそうだ。
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次に、「アンチェル指揮チェコ・フィルによるショスタコーヴィチ交響曲第5番(コロムビアミュージックエンタ
 
テインメント)」を例にして考えてみよう。この演奏の評価も高い。ただ、皆さんの評価は、どちらかという
 
と歴史的な背景(旧ソ連のチェコへの軍事介入)、社会主義国家時代の政治的境遇を加味したものに
 
なっている。ただ、それは後付けで、演奏を聴いて矢張りそうなんだな・・・と理解している感じではある。
 
演奏を聴いた感想は、確かに凍て付く東欧の厳しい冬を堪えて凌いでいるような独特の雰囲気が
 
漂っている。包含的で深い気もするが、感情が表面的でないことが私には多少不満な印象だ(まだ、
 
青いですかね?)。また、カップリングの祝典序曲が余りにもあっさりしており気が抜けてしまう。
 
(その3に続く)