私の二番目に好きなチャイコフスキーの曲は何だろう?「弦楽セレナード ハ長調 作品48」と明確に
答えたい所だが、実は、同じように好きな曲が多いので、正直、悩んでしまう。この曲は、小澤征爾
先生も大好きな曲で、初めてのオーケストラとの演奏や演奏者への指導目的でも使われることが
多かったようだ。チャイコフスキーの曲は短調で書かれることが多い。ところが、この哀愁に満ちた曲
はハ長調なのである。これは驚きだ。冒頭部は、ハ長調でありながら、実はイ短調の主和音で開始
されるので、初めは短調だなと思うのである。メロディーは優雅にして哀愁に満ちており、加えて重厚
だ。冒頭の数小節で既に聴く側の心をがっちり掴んでいる。素晴らしい!の一言だ。この曲は、
モーツァルトへの敬愛から書かかれたものである、と文献に書かれてある。結構なことなのだが、実を
言うと、私はモーツァルトの音楽をあまり熱心に聴いていない。無論、代表的な交響曲や歌劇などは
ほぼ聴いているが、それ以上には踏み込めないのである。モーツァルトの才能には敬服するが、その
音楽家としての姿勢、生き様には共感する所が少ない。このBlogを読んだ熱狂的なモーツァルトには
申し訳ないが、どうも苦手な部類のようである。

弦楽セレナードの第一楽章の中に「ロシア
民謡」の主題を使った旋律が流れてくる。
チャイコフスキーの交響曲には何処かに
「ロシア民謡」の主題を使った旋律が使われ
る。それはどうしてなのだろう?
それは、そういう音楽を聴いて育った経験が
今の自分を作り上げてきたのであって、DNA
に深く刻まれていることに他ならないと思う。
これが日々成熟されて新しい感性を生み出すのである。よって、時として自然にそのメロディーが出て
しまうのだろう。歌舞伎役者の子は歌舞伎役者、音楽家の子は音楽家・・・このような事が多いのは、
生まれながらの「才能」ではなく(無論、DNAによる才能の遺伝を否定するものではない)、生まれ
ながらの「環境」が深く影響している。父がバイオリニスト、母はピアニストの環境で育てば、やはり
小さい頃から音楽と共に生活を過ごし、指導を受けているから感性が磨かれるのであって、初めから
名演奏家として生まれている訳ではない。時にして、その正反対の音楽に共感し、ヘビメタの世界に
没頭するものが出てくるかも知れないが、基本、音楽家としての素養ができているので、いずれ卓越
した才能を開花させるであろう。話を戻そう・・・。
チャイコフスキー最後の大作とすれば、交響曲第6番
チャイコフスキー最後の大作とすれば、交響曲第6番「悲愴」であり、19世紀後半を代表する交響曲の
ひとつとして高く評価されている。では、なぜ、このよう
な大曲を私が二番手に選ばないのか・・ということに
ついて話そう。この曲だが、クラッシクファンならご存知
だと思うが、「pppppp」という極端な強弱記号が付され
ているなど、作曲者自身の相当な思い入れがある曲
なのだが、あまりにも悲しすぎて、大変申し上げ
難いが、精神面で聴くに耐えられないのである。また、第一楽章の展開部では、静寂の中から全合奏
でいきなり始まるため、本当に心臓に悪い。聞き入っていれば入る程、これが強烈に感じられる。
よって、二番手に推薦できないのである。その他、「序曲1812年」「スラブ行進曲」なども好きである
が、「弦楽セレナード」には凡そ敵わない。昔は、「序曲1812年」のように派手で爽快な曲も良かった
が、今では心底から惚れられないだろう。最近はあまり聴く気にもなれない。「序曲1812年」
「スラブ行進曲」については、ストコフスキー版が奇想天外な意味でもお勧めできる。
一聴の価値アリです。
