感覚や感情は
外のものを感じ取っているにすぎないことが多い
感じているのは
外のものを感じ取っているにすぎないことが多い
感じているのは
私だが
感じ取っているものは
自分のものとして反応してしまっている
これを自覚していないと
まず簡単に
巻き込まれてしまう

よく言われる様に
自分にあるものが、外側に表れてるんじゃないの?
たとえ
外側に表れてるものが
自分の嫌悪してる、避けているものだとしても
(過去、過去生含む)
それは
今表れている人々も、只そうなんだと
受け取れる様になる
そして
そこには
赦し、許しがあり
けっして
そこに(そこには)
罪はなかったんだと
罪はないんだと
悟っていける様になる
感じ取っているものは
私のものではない
それを自分のものの様に感じてしまうのは
自分との関連性をわざわざ無理やり探し
(無意識に)
それを自分のものの様に感じてしまうのは
自分との関連性をわざわざ無理やり探し
(無意識に)
自分のものとして反応してしまっている
これを自覚していないと
まず簡単に
巻き込まれてしまう

自分自身の内に留まり
感覚や感情はツールとして使う
という
昨日の体験からの記事です
⇧ここまでが先に出した記事ですが
⇩追記です
この様な記事を書くと
よく言われる様に
自分にあるものが、外側に表れてるんじゃないの?
と言われるかも知れないけど
たとえ
外側に表れてるものが
自分の嫌悪してる、避けているものだとしても
(過去、過去生含む)
それは
今の自分のものではないよね?
それを
自分にあるものが外側に表れてるんだと
受け取ってしまうと
自分を責める事にもなりかねないし

それを
自分にあるものが外側に表れてるんだと
受け取ってしまうと
自分を責める事にもなりかねないし
それを消そうとしたり、様々に試みる
しかし
上で書いた様に受け取り
自分自身(真我、キリスト)の内に留まって
冷静に見ていれば
いずれ
嫌悪してる、避けていたものも
(過去、過去生含む)
それは、その時只そうだったんだと
しかし
上で書いた様に受け取り
自分自身(真我、キリスト)の内に留まって
冷静に見ていれば
いずれ
嫌悪してる、避けていたものも
(過去、過去生含む)
それは、その時只そうだったんだと
今表れている人々も、只そうなんだと
(経験、体験)
受け取れる様になる
そして
そこには
赦し、許しがあり
けっして
そこに(そこには)
罪はなかったんだと
罪はないんだと
悟っていける様になる