今日はNatale(クリスマス)。

イタリアでは家族と過ごす日となっていて

お昼は同居しているイタリア人のご家族の家に

お呼ばれランチに行ってきました。



・・・さて。

イタリアの人々は

地元のコミュニティ内の繋がりが半端なく強いです。

例えばウチの家にもしばしば

近所に住んでいる同居人の友達が遊びに来ます。

30過ぎの男4,5人が平日の夜に家に集まって

一緒に夕食を作って食べて、なんてのは

日本では珍しい光景ですし

ちょっとカッコえぇなー、という感じです。

また、その後酒を飲みながらサッカーを見たり

サッカーゲームをしたりして

得失点に一喜一憂して大騒ぎ

(ゲームでも得点したら叫びながら

 家の中を走ったり(笑))するのは、

微笑ましくもあります。

逆に「友達の家に晩飯を食べに行こう」と

同居人に誘われてコートを着込むと

同じ建物の1コ下の階の部屋に連れて行かれた、

なんてこともありました。

ま、こんな風にご近所の繋がりが非常に強いのです。

ところが一方で、そのご近所の友達の中の1人は

ワインの輸出のための会社を立ち上げて

ボストンに移住したり、

また別の1人は彼女がそこにいるからと

しばらくオーストラリアに行ってたり、と

彼らはいざとなると国境どころか大陸をまたぐことを

さして気にする素振りもありません


友達もそれに対して特に驚いて止めたり、とか

そんな風情はありません。


彼らと接していて思うのは、

日本人、と言うと一般化し過ぎかもしれませんね、

少なくとも自分と比べて

興味関心の範囲が自分の地元、というか

ホントご近所、この界隈、みたいなところに

ギュッと凝縮されている、ということ。

一方で、じゃあもうちょっと範囲を広げてみるかとなると

一気にグローバルなところまで軽々と広げてしまう


そんな印象です。

比較すると、日本にいたときの自分のスコープは

彼らのご近所スコープよりはかなり広いけれども

グローバルなスコープよりははるかに狭いところ

例えば、”東京”だったり、

自分のやっている”仕事”だったり、

つまり、どうしても日本国内を出ない範囲に

あった
ように思います。


また、こちらで出会う人々、

地元のイタリア人だけでなくヨーロッパ人と言うか

ロシア方面や中近東を含めてユーラシア人と言う方が

適当でしょうか、彼らは

それほど教育に熱心な環境で育ったとは言えない人でも

母国語以外に、英語だったりドイツ語だったり

フランス語だったりスペイン語だったり

とにかく外国語を、それもしばしば複数の言葉を

普通に話す
のです。

教育制度が違う、というのももちろんありますが

やっぱりココは日本とは大きく違うな、と実感します。

先ほどのスコープの違いも

1つにはこの点が影響しているのかも知れません。


それから、今日のランチで聞いた

同居人のおばあちゃんの話では

社会主義者であった彼女の夫の兄弟たちは

第2次世界大戦中、拡大する全体主義から逃れるために

イタリアからフランスに移住しそのまま住み着いた、

とのこと。

戦争という特殊な背景があるものの

市井に生きる市民が軽々と(と言うと語弊はあるのですが)

国境と言葉の壁を越えて移住、定住してしまう、

これも日本では考えにくいことだと思います。



学生時代、「政治史」の講義で

グローバル化が進むと国民国家の意味が薄れ、

より小単位のエスニーの存在意義が強まり、

一方で緩やかな帝国主義が昔とは少し形を変えて

台頭してくる
、と学びました。

イタリアは、そもそも統一成ってから日が浅く

”国家”イタリアを意識するのはサッカーの代表戦だけ、

と揶揄されるように国への帰属意識が薄いのが実情です。

都市国家に由来する各都市は伝統的に仲が悪く、今でも

「ミラネーゼはスノッブすぎる」

「ローマみたいなデカ過ぎる所のどこがいいんだ」

みたいな悪口合戦が日常的、つまり

イタリアという”国家”ではなく

自分たちの”地元の町”の方が存在意義が大きいのです。


一方で世界を騒がせた最近の経済危機は

EUによる保護と叱咤のおかげで何とか回避できた、

というような状況は

まさしくEUという”緩やかな帝国”が力を発揮した、と

言えるのではないかと。

つまり、先ほどの論の通りのことが

進行しつつあるように思えるのです。



今後ますます移民と混血が進み

越国境の壁が低くなるであろう”大陸”では

(地元という小エスニーへの意識の高揚をはらみつつも)

他民族、他言語であることによるしなやかさをもって

ますます緩やかな統合が進み、力をつけていく
と思われます。

これに対し、”島国”日本は98%を超える単一性故に

”国民国家”としての機能が今後しばらくの間も長く保たれ過ぎて

可塑性、柔軟性、他者への対応性みたいなところは

無意識でいては磨かれにくいように思います。

個人としての問題云々ではなく、

全体としての水準という意味で

意図と意志を持ってスコープを変え、

語学習得の仕組みを変える
などの

手を打っていかなければならないと思います。

加えて、これも”島国”という地理的的な条件から

緩やかに統合していく相手にも不自由するので

数の論理でも立場が弱まるリスクは高いですし・・・。

こちらで合計7ヶ月ほど暮らしてみての実感値として

そんなことを思います。



あまりも静かなので、キャンドルの灯を見ながら

長々と書き連ねてしまいました・・・。



Buon Natale.