これまで僕は、「努力に限界はない」と思っていた。
・・・あれがいかんかった。
母親からずっと、「やれば出来る子なのに・・・」と言われて育ったあれがいかんかった。
「努力に無限の可能性がある」という前提に立って物事を考えると、現在の恵まれない境遇その全ては、自分の努力不足という一言で片付けられてしまうことになる。
もしも本当に努力が無限の可能性を秘めているのなら、
努力さえすれば、誰もが石川遼になれるということになる。
努力さえすれば、僕でも総理大臣になれることになる。
僕が敬愛する甲本ヒロトという人からも、しかし、どこかその思想が垣間見えることがあった。
「不死身のエレキマン」という曲は、まさにそのメッセージが爆発していて、
人間だれでもやれば出来る → お前らはただそれをやらないだけだ → 逃げんじゃねえ!怠けてんじゃねえ!
と、全人類、全オトナ達を叱咤しているような気がした。当時の僕は「うん、うん、その通りだわ」と大いに共感し、奮い立たされたような気がする。
が、きっとそれは違うのだ。
あくまでヒロトは、ヒロトだったから、ヒロトになれたのである。
つまり、僕がいくら努力をしたところで、甲本ヒロトにはなれないのである。
それと同時に、いくらヒロトだからって、じゃあ、総理大臣になれたのか?石川遼くんになれたのか?・・・そういう全く別の可能性は、果たして存在したのだろうか?
それは、「否」だろう。
それはまさに「呪い」であった。
「努力は無限の可能性を持つ」
という一見とても耳障りの良い言葉を、バカ正直に信じてしまった僕は、うだつのあがらない毎日を全て自分の所為にして、ひたすら己を責め続けてきた。
愚かなことである。
そして、辺りを見渡せば、日本人は割とそういうバカ正直な人間だらけだということに気付く。
あらゆることを自分一人の所為にして、自分で自分の首を絞めて、勝手に唸っている。
もうやめよう。全部辞めてやれ。
無抵抗を決め込んでやろう。
キミが必死になってしがみついているそれは、よくよく見れば実は大した価値もない、只のガラクタだったりするんだよ。