これは、エヴァンゲリオン(ヲじゃないよ)赤木リツコ氏の放った名言であるが、
今回ぼくが言いたいのは、「人間はロジック(論理)じゃない」ということである。
思春期の頃のぼくは、「自分(の感情)」というものは、自分で自由自在にコントロールできるものだと強烈に思い込んでいた。
でも、そう思い込んでしまう気持ち、分からなくもない。
なんつったって「自分のココロ」じゃないか。
そこを自分で操縦出来ないとしたらもう、「じゃあ、一体オレはダレなんだ!?」ということにすらなってしまうだろう。
これはある意味、誰もが一度は錯覚する、当然の感覚なのかもしれないのだが・・・。
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例えば。
いわゆる「才能」ってヤツは、もうどうにも逆らい様がないけど、「努力」ってのは、いってみりゃあ「バイキング食べ放題」みたいなもので、そこには無限の可能性があるとぼくは信じていた。
いうなればあの「ウサギとカメ」童話のぼくは「狂信者」である。
・・・自分の中の「努力スイッチ」を押せ。その先には、∞(無限)の成長がある。
極端な運動オンチで、あらゆるスポーツが嫌いだったぼくが、唯一「マラソン」だけは嫌いじゃなかったのも、その論理で全てを説明することができる。
つまり、反射神経やセンスなどに一切左右されない。ただ「走り続ける」、ルールはそれだけ。
疲れたら、いつでも立ち止まればいい。
高校の体育でマラソンをやらされながら、
「もうクタクタだ。このまま走り続けたら、きっと死んじゃう」
「本当か?じゃあ、走り続けて死んでみろ。」
なんていう自分と自分の会話を、ぼくはどこか楽しんでいた。
ぼくにとって、マラソンはもうスポーツなんかじゃなく、「哲学」や「修行ゴッコ」だったのだ。
「自分の意思で息を止め続けて死ぬか、走り続けて疲労で死ぬか、それ以外の自殺は、ホンモノの自殺じゃない」
これは高校生の頃、常にぼくの頭にあった思想である。
一体ぼくがどんなガキであったか、これだけでかなりご理解いただけるのではなかろうか?
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ところが、ぼくはその後の数年間の人生で、根底からその思想の限界を思い知らされることになる。
「彼女が浮気したら?・・・そんなんソッコウで別れるよ。そんな悪女とはサラリと別れて、次にもっと誠実なカノジョを探せばいいじゃないか。むしろ淡々と、そうすべきだ。」
そう豪語していたぼくが、実際自分の女に浮気をされた時に陥った心理といえば、「なんとかしてもう一度彼女の気持ちを『オレ一筋』に戻したい」というなんとも情けないものだったのだ。
そして結局、「サラリと別れる」どころが、ドロッドロの男女の愛憎劇を演じながら最終的に別れる、という結末となったのである。
「326になるまで、中村佑介になるまで、『努力スイッチ』を押しつづけろ。一日一枚イラストを必ず描け。やればやっただけ前進できるんだから。」
そう自分に指令を出して、叱咤激励して、「描くまで寝るな!」とか、とことんまで自分を追い詰め続けてみたけれど、結局ある時を境にしてぼくの信じてきた『努力スイッチ』は、いくら押しても、ウンともスンともいわなくなってしまった。
そして現在に至るわけだが・・・。
ぼくはあいかわらず自分の感情をちっともコントロール出来ずに、もがき苦しんでいる。
「ついブログに恥ずかしいことを書いてしまった。・・・もう、この世の終わりだ。」
「そんなことをイチイチ気にするなよ。どうせしっかり読んでくれてる人なんて、良くても数十人程度ってトコだろう?」
・・・一応励ましてみるのだけれど、実際ぼくは一回悩みだしたら、もう当分のあいだ放っておくしか方法がない。
つまり、ぼくという人間は、自分をロジック(論理)で料理することがちっとも出来なかったのだ。
「そんなの当たり前だ」という人がいるだろうけど、
かつてぼくは、心の底から自分の中の『努力スイッチ』を信じ、
人間のココロは本人の意思で操縦できるものと考えていたのである。
オワリ。
・・・あれ、今回って、もしかしてオチてない?
・・・失敗?(笑)

