そう。
本当に心から分かり合える人との巡り合いというのは、本当に「かぎ」と「鍵穴」くらいの確率だな。ぼくは最近つくづくそう思う。
いつも使っている車とか家の「カギ」と「鍵穴」。それらは一体どのくらいの確率で巡りあえている関係なのだろう。
単純に考えるなら、この世に扉が1億扉あったら、一億分の1という確率になるわけだが。
インターネットやブログを始めて、ますますぼくの孤独は深まった。
人間にはこんなにバリエーションがあるなんて。千差万別という言葉があるが、そういうことなのか。
以前のぼくは、正直それを2種類くらいで考えていたのだ。「分かり合える人」と「そうでない人」みたいな。それならば、50%の確率で人と人は分かり合えることになる。
それが、どうやらそうではないようなのだ。
例えば。
ぼくは甲本ヒロトは誰からも愛される絶対普遍のヒーローだと思っていた。
みんな知らないだけで、教えてあげれば、きっとその魅力に誰もが気付くものなのだと、そう固く信じていた。
でも、音楽の趣味は実に多種多様多ジャンルで、1000人いたら、1000人がそれぞれ別のミュージシャンを好むというのが現実のようなのだ。
そして、やっと似たような趣味の人に巡り合えたと思いきや、今度はその好きの「内容」でまた1000通りに分かれてしまう。ヒロト好きひとつとっても、ぼくが大好きな曲を嫌いという人がいれば、またその逆の場合が幾らでもある。
これは別に男女関係に限定した話ではない。
だってこれはココロの話なのだ。肉体構造上の凸とか凹なんてものとは一切関係ない。
別にヤロウだって構わないわけだ。・・・まあ、ぼくは自分がオトコなので、本能的には女子の方が断然好きなのだが。
あ?話がズレテしまいそうだ。
そう、要は、価値観のカンペキな共有が如何に難しいか、ということをつくづく思い知る今日この頃、ということがいいたかったのである。
こんなに人類が多種多彩だと、もう嫌んなっちゃいます。正直、やる気失くします。
ぼくは他人のブログになんて滅多にコメントしないから(ペタは割と無責任にしまくるけど)、逆にコメントをいただくことは、とても大きなことだと捉えている。コメントがついた記事には、ある程度の自信がもてるし、つかなかったら今日の記事は「何が駄目だったのだろう」と反省をする。
でも、
そうはいっても、ぼくの主張を正しく理解し、そして共感・感動してコメントをしてくれる人なんて、なかなかいない。一番嬉しくない「説教系コメント」をはじめ、ろくに内容を理解もせず、安易にコメントをつける人が結構多いのだ。
嗚呼、いやになる。
絶対結合の、運命の赤い凸と凹には、誰だって憧れる。
ぼくの凹よ。
きみはどこだ?
ていうか。
そんなのやはり「幻想」ナノか!?
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