<前回からの続き>


・・・というわけで、ぼくはLIVEというものを楽しめたという例がないのだ。


というか、それ以前に、何故ぼくはLIVEに行く必要があったのだろうか。そもそもぼくはLIVEに何を求めていたのだろうか。


それは大きく分ければ、以下の2点のようなものだったのだろう。


まず1つ目は、

「普段、雑誌やテレビの中でしか見ることの出来ない存在と、同じ瞬間、空間の共有をすることが出来る。」

ということ。


そしてもう1つは、

「大好きなミュージシャンの生演奏・生歌・生音を聴くことが出来る。」

ということであろう。


但しぼくは、音楽の理論的な部分についての知識が全くなく、また感性も鈍感なのか、「生音」と「CD」の違いというのが理解できない。


そのため、上記の2点でいえば、完全に前者のみに期待する形でLIVEというものに憧れていたのだと思う。


しかし、イザLIVEへ行って、その「時間と空間の共有」というものを体験してみると、完全に「不感症」な自分がいることに気付かされるのだった。



そこへ冒頭の「音楽に内在する宗教的要素」というキーワードが解答を導き出すことになる。


これは、「アイドル」という言葉がその全てを説明してくれる。


現在では、芸能人など、特に女の子によく用いられるこの単語、「人気者」というふうにも訳されるが、この単語、実は「偶像(神像)」という意味にも訳される言葉なのである。


ステージ上の存在(アイドル)とステージ下のぼくらというのは、分析的に見れば、つまり『偶像』と『それを崇拝する者』という関係となるのだ。


そう結論すると、これまでの疑問が全てスッキリ解決する。



つまりぼくは、「偶像崇拝」が出来ないタイプの人間なのだ。


そういえばぼくは、ヒロトやBUMPの基央さんの価値観や世界観に対して「共感」こそ大いにするけれで、それが決して「崇敬」とか「心服」にはならない自分自身を、以前からどこか不思議に思っていた。



それらの疑問もすべてが繋がって解決する。


要するにぼくという人間は、BUMPやヒロトの音楽に対してただ「共感」をしていただけなのだ。その「共感できる喜び」をCDなどの音源を通して楽しんでいたのである。


そして、それが生きていく勇気や自信になり、ぼくにとってとても価値のある体験であったことには間違いない。


だからこそ、尚更!なのである。


ぼくは彼らのことを、ステージの下から「見上げて」聴く、なんていう、つまり「偶像」と「崇拝者」の関係であるLIVEが楽しめる訳がないのだ。


そりゃあそうだろう。「共感」という感情を得るために、大前提として必要なのは、「平等であること」なのだから。


それがたとえ錯覚であろうとも、である。「思い込み」でいいんだ。「思い込めること」が大切なのだ。


だから、<前編>でご紹介した、あのROCK IN JAPANフェス2002の様な状況というのは、もう「論外」もいいところだ、ということが分かっていただけるだろう。


ぼくはBUMPには「共感」していたいんだ。それ「以上」も「以下」も有り得ないのだ。



ROCK IN JAPAN のステージが、ぼくとBUMPとの関係を台無しにする。ぼくとヒロトとの関係をクソつまらないものにする。



ステージは要らない。


ステージは、要らない!!




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