ぼくはこれまで26年の人生の中で、音楽や漫画やアニメや映画などにはずいぶんと救われてきた。また、その他の世界には一切興味を示さなかった。


だからぼくは、ミュージシャンや絵描き、漫画家、アニメーターなどという、つまり「表現者」と形容されるもの以外の職業には一切興味を持つことがなかった。それは、「その他の職業は全て、ただ収入を得るためだけに存在している」と思っていたほどである。


「将来はぼくも絶対に『表現者』になる。それ以外の職業なんて、誰でも出来る、くだらないものばかりだ」・・・心の中でずっとそう思ってきた。


ただし、その過程でぼくは、「音楽は世界を救う」だとか、「戦争を止められる」とか、そんな期待をもったことは一度だってない。


甲本ヒロトが、

藤原基央さんが、

宮崎駿さんが、

宮本茂さんが、

そういったぼくの大好きな人達が、ぼくにしてくれたこと。「ワクワクとドキドキ」をくれた。「感動」をくれた。「爆笑」をくれた。でも、それを突き詰めれば、


「退屈を埋めてくれた」


実は、只それだけのことでしかないのだ。


その「只それだけ」が、ぼくにとってとても重要なことだったのは間違いない。もしぼくがそういった名作達と出会えていなかったら、退屈のあまり、人殺しとか自殺とかしていたかもしれない・・・いや、それはちょっと大袈裟だけど。



ではそれと、「世界平和」や「戦争のない世の中の実現」と一体なんの関係があるのだろうか?

ぼくみたいな「救われた個人」が世の中に溢れ、その結果、世界中の人々に「思いやり」が生まれ、「強調性」が養われ・・・なんていう図式のことを言いたいのだろうか。


ぼくは自分の理屈っぽい性格からも、メッセージ性・思想性の要素の強い歌詞を歌にするミュージシャンが好きなのだが、それを表現する才能があればあるほど、又、カリスマ的な人気者であればあるほど、必ず最終的に、この「世界を変えられるか」という壁にぶち当たってしまうらしい。

ぼくは音楽誌などで、こういった命題と向き合わされるミュージシャン達のインタビュー記事を腐るほど読んできた。


そこへ行き着いてしまう気持ち、ぼくにも何となく理解出来る。


得意なこと、大好きなことを自由気ままに表現していたら、いつのまにか気付いたら、数多のファン達がステージ上の自分をまるで「神様」のように崇拝している。

出来ることならその期待に応えたい。そうやって「理想」へのハードルはどんどん上がって行き、結局最後に行き着くのは、「世界平和」「戦争のない世の中の実現」というお決りの場所に辿りついてしまう。そういうことなのだろう。


どうらやぼく達は、とても大きな「勘違い」の世相の中に生まれてきてしまったようである。


ミュージシャンを始めとした「表現者」といわれる人々とは、たとえそれが「一流」だろうが「三流」だろうが、やっていることは、「庶民の退屈を埋める」という、実は只それだけの存在でしかなかったはずなのだ。人の憂鬱や退屈を吹き飛ばして笑顔に変える、これはとても素晴らしいことだろう。でも、どこまでいっても「それは、それ」なのだ。


それらは本来決して「世界平和」なんかと直接関係するものではなかったのだ。ただ、「庶民を慰める」役割の人たちだったはずだ。


そして、本来そこに直接関係するべきは「政治」と「宗教」なのだろう。この2大要素が現代では完全にその権威とカリスマ性を失ってしまっている。政治家には誰も期待していないし、「宗教」なんてますます怪しいもの扱いされていくばかりだ。


そして、「たかが娯楽」に全国民がしがみついて、そこにしか救いを求められない、という、恐ろしく奇怪な光景が、さも当然という顔で、現実社会に横たわっている。


僕たちはこの「勘違い」に気付き、矛盾した世の中のネジレを元に戻さなければいけないのだ。


・・・長くなってゴメン。


(・v・) (・v・) (・v・) おしまい







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