いいよ。


そう、当ブログの対象年齢は中2くらいなのでね・・・。


そうです。ブログの筆者の脳みそが中1レベルだから。


え?謙遜なんかじゃないっすよ、本気で言っているんです。頼むから信じてほしい。

おれは・・・おれの学力レベルは・・・、


「中1」なんダァ!!!



(笑)、・・・ぼくは、美術系短大を卒業しているから、一応学歴は「短大卒」ということになろうか。しかしこれには大きな落とし穴があるということを、声を大にして伝えたい。特に今を生きる中高生とかの人に・・・。


ぼくは、中高短大と、ずーっと、授業中は教科書への落書きに専念するか、そうでなければ間違いなく寝てた。ぼくは受験勉強テスト勉強なんてした記憶が一切ない。

ぼくの記憶に鮮明に残っているのは、全く手をつけないまま積み上がっていく「進研ゼミ」のテキスト・・・それに対する罪悪感、ふがいない自分へのほのかな嫌悪感だけだ。

英語はbe動詞でつまづいた。 数学は割り算でつまづいた。「微分」「積分」とは何のこっちゃかさっぱり分からん。ぼくは中一レベルのまま26歳になった。


そして、実はこんなオトナが現代社会には割と沢山いるような気もする。

そしてまあ、その結果は「案の定」というべきだろうか。ぼくは26になる現在も定職に就かず、未だに宙ぶらりんな生活を送っている。


でもここでぼくは、そんな自分の過去の、肯定・否定がしたいわけじゃない。


ここでぼくが伝えたいこと。・・・それは、「現代教育」のせいでぼくにとって「勉強」が「拷問」になったという事実だ。


ぼくに言わせれば、極端な話、学校教育ってのは基本すべて、あの「円周率」をひたすら暗記させられるのと同じだったのだ。味のないガムをひたすら無理矢理に噛み続けさせられるような、そんな感覚だ。

よく子どもが親や教師に向かって、「勉強してなんの意味があるの?」というが、あれは、おそらく子ども側の方にこそ、真理があると今では思う。


ただし、もちろんそれは「極論」だ。そういうぼくだって、最低限の読み書き計算を学校で教わらなかったら、今どうなっていたか分からない。ある程度、子どもの頃に脳みそを使っておくことは、やはりとても意味のあることなのだろう。


ただし、「知識はあくまで『必要』を大前提とするべき」というのが、ぼくの結論である。

必要に迫られた状態でこそ、知識は初めて価値を持つのだ。・・・まあ、理想論なのかもしれないけれど。


そういうぼくは、つい最近になって、この世のあらゆる「知識」というものに、興味を持ち始めた。

「数学」「言語」「科学」「政治」「宗教」「文学」・・・それぞれが本当は実に奥が深くて、それを学ぶことは、とても楽しくて面白いことなのだと、今更ながらにして気が付いたのだ。


そして、あの学生時代は一体なんだったのだろう・・・としみじみ過去を回想をする。


映画鑑賞、音楽鑑賞、そして「食・睡・性」の3欲を満たすことくらいしか、この世の楽しみ方を知らなかったぼくにとって、それはもう「ウロコから目が落ちまくる、東京大事変」だったのである(・・・なんだそりゃ、笑)。


本来、人間にとって「学ぶこと」は、「快楽」たり得るものなのだ。それが現在の世間一般の認識として、学ぶことがむしろ「苦痛な作業」と成り果てている。


そもそもこの世は一体、何のため、誰のためにあるものなのか。


本末転倒とはまさにこのことで、「人間のため」にあるはずの「社会」が、学問を「苦痛」に仕立て、結果として人間社会を、くだらない娯楽・快楽の追求しか出来ない「サル園」にしてしまっているのだ。これは人類にとって、とても不幸なことだと思う。


嗚呼。


とりあえず。とりあえずだ。


世界はそう簡単に変わりはしないけど、ぼくがここで、中1程度の知識でもって発信を続けるから、これに気が付いたあなたも、あなたなりの方法で、ぜひとも世界に呼びかけていって欲しいと強く願う。


非常口 非常口 非常口 おしまい


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