ヤッホー! やまたん で~す。



今日はこのブログのメインテーマから

ちょっと外れるのですが、


母についてお話します。


実はいつものように深夜のラジオを聴いていました。


その中で、「母を語る」 という番組で、

シンガーソングライターの、南ランボーさんが、

亡くなられたお母さんの事を、お話されていたのです。


素晴らしい内容だったので、その事を

コメントしようと思ったのですが、


考えて見ると、私は母の事を外部に話した

事は殆ど無いなと思い、この機会に、

このブログを通じて母の人柄なりを残しておきたい!

衝動に駆られ、ご迷惑とは思いましたが、

記事にさせて頂きました。


興味のある方だけ、お読みください。



母は富山県魚津市に、

4人の弟、2人の妹の長女として、大正4年に出生。

実家は、「願宗寺」 という、浄土真宗のお寺で、

越中は、浄土真宗が多いですね。


19歳で結婚、樺太(サハリン)に渡り、

6人の子を授かります。


昭和20年8月終戦、

同年の秋に樺太から引き揚げます。

父と母は

永年外地で一生懸命貯めた財産、家屋も全てを

置いたまま、着の身着のまま、命からがら引き揚げ、

母の実家

富山にある、「願宗寺」 に家族7人身を寄せ、

私はその時、4歳でした。


戦後はどこの家も生活は苦しかったです。


実家に身を寄せ、1年ほど経つと、

母の兄弟の嫁さん等から、

「嫁として出ていった者までの面倒は見きれない」

のような感じの声が聞こえ始め、


父は1日も早く自立し、嫁の実家を出なければ!

との思いで、北海道に繋がりを持つため、

何度も小樽、札幌、函館へと通っていました。


2年後、ようやく基盤らしきものが整い、

父の出身地でもある函館に引っ越したのです。


それ以来、母も父も働き尽くめでした。


私のところは、男兄弟5人、姉が一人の

やんちゃ盛り、食べ盛りの年代ばかりだったのです。


特に母は、当時で言えば、「ヤミ米」 の販売。


当時は、お巡りさんでも、


母からヤミ米を買う時代です。


そして、折を見ては、倒産会社から、

缶詰、日用品、雑貨を買いたたき、


トラックに満載、運転手を雇い、

北海道内を隈なく歩き、持ち込んだ商品が

完売するまでは、1週間でも、2週間でも

決して帰宅することはなかったのです。


さらに、函館は、水産の街だったので、

イカさし、イカ干し、イカのしの女工、その間には、

自家用の、「スルメの加工事業」 と、

考えられるあらゆる内職で、家計を支えてくれました。


肉体的にも相当な力仕事ばかりです。

本当に、母は強しです!

(私の母だけではありませんが。)


私が高校を卒業した昭和35年でも、


母は、その後、


「おやき屋」、「ラーメン屋」と小さい店を始め、

とにかく、「 ゆっくり休む 」 という事の無い人でした。


そんな母も65歳過ぎた頃から、父と一緒に、

「パチンコ」 をやり始めたのですが、最初は遊びで

やってた様ですが、根っからの商売人なのか、

だんだんと、「勝ったの負けたのと」 言い出し、

負けると、取り返すべく、かなり、「ハマった」  ようです。


負けず嫌い 」 なんですね。


その頃は、地域の婦人部の主催で、よく、

近隣の1泊旅行や、サクランボ狩りとか、

楽しい行事のお誘いが年に何回かあるのですが、


そのような催事には、いつも、「 人は働くように出来てる

と言って、行ったためしが無い母で、


働き尽くめ 」 の母でした。


私はいつも、


「 珠にみんなと一緒に楽しんだらいいのに!

と心底思っていました。


これほどまでに自分を犠牲にして我ら6人を育てて

くれた母です。


亡くなって今年で25年が経ち、

生きてたら今年96歳です。


私は幼少の頃から20歳頃まででも、

本当に、親によく、「 口答え 」 をしてた、

親不孝者です。


今日は、ラジオ番組のお蔭で、母の事を

思い出させて頂き、ついついこのような

コメントをしてしまいました。


天国で、笑ってるだろうな? 


「 気付くのが遅すぎる! 」 と。



それでは、今日はこの辺で ・・・・・・・・・・



  やまたん でした。


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