角屋(すみや)
外観は焦茶色の格子で揚屋(あげや)建築である。

客を二階へ揚(あ)げる事から「揚屋」と呼ばれるようになった。

揚屋は、芸者さん達を抱えず、置屋(おきや)から彼女達を派遣
してもらい、客を接待する高級料亭である。

おもてなしの酒宴の施設である故、大座敷に面した庭に必ず
お茶席を配し、大きい台所を備えているのが、重要な特徴である。

庭が良く見えるように、廂には支える柱が無い。特殊な構造らしい。

庭に、横に長く伸びたダイナミックな臥龍松(がりょうしょう)
が植わっている。初代の松は枯れ二代目が目を楽しませてくれる。

角屋には、幕末の志士や新選組の隊士達も出入りした。

新選組の初代局長は、芹沢鴨(せりざわ・かも)であるが、
品行良ろしくなく、仲間と一緒になって乱暴狼藉を働く事が
多かった。

新選組を預かっていた会津藩は、藩主・松平容保(まつだいら・
かたもり)が京都守護職を任じられており、京の治安を守る立場
であった為、芹沢等の行動は好ましからざるものだった。

会津藩は芹沢を処置するよう指示した。

しかし、芹沢は剣の達人であり、まともに戦えば勝ち目は無かった。
近藤勇達は一計を案じた。

先ず角屋で宴席を設け、芹沢等を泥酔させた。その後、壬生(みぶ)
の屯所・八木邸に連れ帰り、寝込んだところを、土方歳三、沖田総司
達が襲い、芹沢と他2名を刺殺した。

芹沢の最後の酒席となったのが、この角屋の1階大座敷である。

一方、江戸中期には、与謝蕪村の親友が島原に住み、俳諧が盛んであった
事から、角屋所蔵の美術工芸品の中に、与謝蕪村の筆になる「紅白梅図屏風」
がある。

明治末期頃、歌人の吉井勇が角屋で詠まれた歌

「島原の 角屋の塵は なつかしや 元禄の塵 享保の塵」

幕末の雰囲気と文化の香りが漂う角屋を後にして、次の目的地に向かう。…次回に続く。