1975年、広島東洋カープは、アメリカからジョー・ルーツを監督に招いた。就任直後、ルーツ監督はミーティングで、「君達一人一人の選手には勝つことによって、広島という地域社会を活性化させる社会的使命がある。」と力説したとされる。またルーツは、前年まで3年連続最下位だったチームの帽子の色をそれまでの紺色から燃える闘志を表わす赤に変えた。ルーツは広島の代名詞である「赤ヘル」の生みの親でもあるのだ。ルーツは全力を出し切ったハッスルプレーを求め、消極的なプレーには容赦しなかった。しかしペナントレースが始まると、ルーツは審判団と日米の野球の違いで対立してしまう。またそれが原因で球団との軋轢を生み、4月30日にわずか15試合のみの指揮で監督を辞任してしまう。その後コーチであった古葉竹識が監督に就任し、ルーツが残した遺産である「積極果敢な走る野球」を継承して、セリーグ初優勝へとチームを導くのだ。この当時活躍した主な選手は、野手では山本浩二、衣笠祥雄、投手では外木場義郎などで、彼等はこののち球界を代表する名選手となってゆく。