一般的にアイルランド人はイギリスが嫌いです。
理由は長いことイギリスに支配されたからなんですが、調べてみるとかなりえげつないものでした。がーん

「イギリス大好き~」という方にはちょっとショックかもしれませんが、お付き合いくださいませ。


イングランドによるアイルランドへの侵攻・支配は12世紀ごろから始まりましたが間接的なものでした。
本格的な、直接的な支配になるのはチューダー朝のヘンリー8世ごろから。
イングランドは英国国教会(プロテスタント)を信仰し、アイルランド人の大多数がローマン・カトリックを信仰していたので宗教改革を兼ねたものだったようです。
ヘンリー8世の娘エリザベス1世もそれを引き継ぎ、当時多くのカトリックの聖職者が拷問され、処刑されました。またイングランドに抵抗する者はもちろん、一般市民(女・子供も容赦なく)への迫害もあり、“問題を元から絶つ”ために穀物類を焼却するなどして飢餓を起こし、多くのアイルランド人が餓死しました。

スチュワート朝に移り、アイルランド北部アルスター地方へプロテスタント入植が本格的に始まります。
そしてカトリック系住民とプロテスタント系住民による対立が始まり、400年間揉めて今に至っています。

そして1649年、オリバー・クロムウェルと軍(ニューモデル軍)がアイルランド再占領のために侵攻します。期間は1649年8月~1653年4月まで及びます。

アイルランド人がイギリス嫌いな理由
   ※オリバー・クロムウェルの肖像画

1641年におきた反乱への懲罰目的もあったらしく、ニューモデル軍の再占領は残忍極まりないものでした。大量の土地が没収され、多くの無辜の市民 老若男女が殺害されました。兵士の中には乳幼児を楯として戦ったものもいたようです。
一般市民の犠牲者数は戦争関連の疫病や飢餓によるものも含めて20万人ほどになるそうです。
そして、生き残った政治犯(思想犯)は西インド諸島を中心に奴隷として売られ、1655年までで1万2千人にのぼるそうです。

このオリバー・クロムウェルがアイルランドで直接指揮をとったのは9ヶ月ほどだったらしいんですが、何代にも渡って彼の残忍さが言い伝えられ、今日でもアイルランドで最も嫌われているイギリス人の一人となりました。


時は流れ、1801年、イギリスはアイルランドを併合しました。
しかし、1829年にカトリック教徒解放法が定められるまで、カトリック教徒は公職に付けず、被選挙権がなく、私有財産所有権も制限され、ありとあらゆる差別をうけてきました。

そして、1845年~1852年『ジャガイモ飢饉』(The Great famine)がおきました。

アイルランド人がイギリス嫌いな理由
             ※ダブリンにある飢餓追悼碑

ジャガイモは痩せたアイルランドの土地でもよくできる農作物ですし、地代を納めなくてもすむ自宅の庭で栽培して、それを主食としていた庶民が多かったようです。
しかし、ジャガイモ疫病が瞬く間にアイルランド全土に広まり、たちまち飢饉になりました。
飢えと病で人々がどんどん倒れていくのに、英国政府はアイルランド島からの食物輸出を止めるどころか、武装してまで食糧をイギリス本島へ輸出していました。これは地代が納まらないことを恐れた地主たちが反対したからだと言われています。なお地主達はイギリス本島に住んでいて、事の重大さ、深刻さがわかっていなかったようです。
地主のなかには、地代を払えなくなったテナントに、アメリカ行きなどの船賃を渡して土地から立ち退かせた者もいました。ただ、これはまだマシな方で、ルーカン卿という領主は事前の通達も立退き料もなしに1万人もの農民を追い出し、スコットランドからプロテスタント系住民を移住させています。
ジャガイモ飢饉が起きる前のアイルランドは800万人ほどの人口を有していました。しかしこの飢饉で約100万人が餓死もしくは病死し、約200万人がアメリカやカナダ、イギリス本島へ移民として移住を余儀なくなれました。その後も人口は減り、1911年までに400万人と半減しました。人口が半減したのは西ヨーロッパでは唯一アイルランドだけらしいです。
この人口激減の影響でアイルランド語話者が減り、またその後の政策や生活上での便宜から英語が優位となり、実質上の英語圏になってしまいました。

なお、このジャガイモ飢饉が独立への気運を高めたと言われています。

そして1916年、ヨーロッパ大陸では第一次世界大戦の最中、ダブリンでイースター蜂起がおきました。
これはアイルランドの独立戦争へと発展していきますが、この蜂起自体は鎮圧され、蜂起の指導者十数名が銃殺となりました。

そのころ、ロイヤル・アイリッシュ・コンスタビュラリー(RIC)という警察がありましたが、アイルランドの反英活動を抑えるために、RICの補助部隊としてオグジリアリーと、更にこれらをサポートするためにブラック&タンという非正規部隊が投入されました。

アイルランド人がイギリス嫌いな理由
               ※取調べをするブラック&タン


アイルランドで【ブラック&タン】といえば悪名高い集団で有名です。但し、RICもオグジリアリーもブラック&タンと50歩100歩の連中で、一般市民への暴行や虐殺、家宅侵入など横暴な振る舞いを繰り返していました。
ここコーク市では1920年3月に市長のトマス・マッカーティンが自宅前で、妻子の目の前で暗殺されました。次代の市長テレンス・マクスウィーニーは反英を煽動する文書と暗号を持っていたということで逮捕され、禁錮刑を受けました。 (刑務所に入ってすぐ真っ当な裁判を求めハンガーストライキの末、餓死しています。)
そして、1920年12月11日夜~12日未明にかけてコーク大火がおきました。
これはオグジリアリーらの放火でした。

アイルランド人がイギリス嫌いな理由
             ※灰燼に帰したコーク市中心地

原因はIRAによるオグジリアリーのメンバー殺害の報復として偶発的に起こったこととして、英国政府はIRAにもともとの責任があると主張しましたが、目撃者の証言で「計画的、組織的」であることが濃厚となりました。というのもオグジリアリーやブランク&タンらは消火活動中の消防士に発砲したり、ホースを切りつけたりと消火活動を妨害しています。また略奪をはたらくものもいました。路面電車を止め、乗客を外に引きずり出し、罵詈雑言を浴びせ暴行しました。(女性乗客が数名いましたが被害を免れなかったようです。)
この大火による直接の死者はいませんが、300万ポンド(当時の価値で)という損害をだし、多くの人が家を失い、職を失うことになりました。

ダブリンでも同じ年の11月にクローク・パークで血の日曜日事件が起きています。

大なり小なりアイルランド各地でRICやオグジリアリー、ブラック&タンによる事件が起き、いまだに彼らの蛮行は語り継がれています。

アイルランド独立戦争の末、1922年にアイルランド自由国として分離しましたが、英国からの影響力排除を目指す運動は収まらず、1937年にはアイルランド憲法が公布され、国名をアイルランド(エール)に変更し、共和制に移行しました。そして1949年には完全にイギリス連邦からも離脱しました。


一つ一つ見てみると「アイリッシュがイギリスを嫌うのも仕方ないかうん」と思います。
主人もイギリス嫌いです。サッカーのワールドカップ予選でイギリスが負けると「ざまぁみろ!」といった感じで喜んでいました。 (そんな彼を「性格悪~」と思いながら眺めていました。ため息
ただ、イングランドのプレミアリーグは別なんですよねぇ汗サッカーは別物みたいです。
あ、アイルランド人の中にはサッカーは英国のスポーツだから嫌いという筋金入りの人もいます。

(本当にごく稀ですが、イギリス人にあからさまに嫌味を言ったり、差別をする人がいます。もちろん人種差別はご法度ですし、悪質・執拗なものは訴えられます。)

どこぞの国の大統領が「被害者の立場は千年たっても不変」とか言ってましたね。そしてその国のメディアも「日帝36年は人類史上類を見ない残酷な植民地支配だった」と宣伝していますが、本当の残酷な支配とはアイルランドが英国から受けた支配だと思うんですよね。顔
けど、アイルランド政府は英国に対して、謝罪や賠償を求めていませんし、他所の国で告げ口外交したりしません。 (英国が謝罪したのは、1997年にトニー・ブレア首相がジャガイモ飢饉に対する当時の英国政府の責任を認め謝罪したのが唯一です。)
そして「愛英友好」みたいなことも言いません。
求めているのは対等な関係それだけです。


2011年5月にエリザベス女王がアイルランドに公式訪問され、今年4月には現大統領マイケル・D・ヒギンズが“アイルランド大統領として初めて”英国に公式訪問するなど、今までの蟠りを溶かすような出来事がありました。

ここに至るまで紆余曲折あったとは思いますが、“大人”な二国関係が築けて羨ましいなぁと思ってしまいました。ふー
                                      (Mrs.G)
   


                                参照元:Wikipedia アイルランドの歴史
                                    Wikipedea The burning of Cork
                                     Horrible Histries IRELAND by Terry Deary





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