ドッジボールと人生

米国では
1990年代終わりごろから、
校内でのドッジボールを禁止したり、
体育の授業から外す学校が
出てきている。
※Yahoo 個人 スポーツより
▼たった一部の学区から
テキサス州オースティンの学校区
ここが全米で初めて
ドッジボールを禁止した学区
かもしれない-
そんな記事が
2001年5月6日付の
ニューヨークタイムズ紙に
掲載された。
同時に、
別の州の複数の学校区でも
校内でのドッジボールを禁止したり、
制限たりしていることを
同記事では伝えている。
▼いじめ懸念
「人間をターゲットにする
ドッジボールは、
いじめをなくそうという
学校教育の方針に合わない」
という理由からだと言う。
同じ人をターゲットに
強いボールを投げるのであれば、
いじめに相当すると言える。
さらには銃社会にあり、
銃乱射事件への配慮の意味から
子どもへの教育強化の意味も込めて
禁止事例を増やしていく。
何れにせよ僕からすれば
全てがもはや別次元の話だ。
▼いじめというか、拷問。
「人にボールを当てる」
その時点で、既に僕の中では
「ありえない」スポーツだった。
だから、体育のような
強制参加にならざるを得ない
場面では、ただひたすら、
逃げる、のみ。
ましてや
ボールを手にすることなんて
全くもって、論外。
そうして陣地内で
必死に逃げ回った挙句、こぼれ玉が
臀部側面や顔面側頭部を捉えれば
情けなさとやるせなさで
さらにこのスポーツへの
嫌悪感を増大させる-
▼いくらゲームとは言え
人めがけて
何かを投げつけるって、
どう考えたって、狂っている。
いや、特定のスポーツなら
全く問題ない。
それこそ数多ある格闘技のように
力や技の競い合いであれば
スポーツとして成り立つ。
けど、複数人数から
特定の人に狙いを定めて
ボールを投げる-
大人である今の自分なら
「遊び」と割り切る前提が
通用するが
「友達」と呼べるクラスメートが
存在しない当時、
ドッジボールの時間は
僕にとって生き地獄以外の
何物でもなかった…