去年も同じことを考えていたんだなあ、と去年のブログを見ながら。

過去のその日のブログが自動でアナウンスされ、自分ではすっかり忘れているのですが、読み返すとハッとします。

 

今年もサンタさんがやってきました。




 

私より先に目覚めた次男坊が、長男に「起きて!サンタさん来てる!」とプレゼントを見て喜んだ朝。賑やかに朝食を食べ、大張り切りで終業式に向かいました。

10歳おめでとう!と本日誕生日の長男もとても誇らしげに。たくさんの人に囲まれ、愛されて育ち、心身立派に10歳になりました。

 

 

子どもたちが心底安心して居ることができる、何に遠慮することもなく、何のためらいもなく心身をリラックスできる場所(家・親)をつくっている自負が、あります。

 

私自身が育ちの過程では味わえなかったモノ・コトを、私は彼ら(夫含む)に(彼らとともに)つくるのだ。と、誓って過ごしてきた10年。自分のキャリアややりたいこともたくさんあるし、あーー1人にさせて〜と逃げ出したくなることもたくさんあったし、目の前の家族よりももっと社会や何か「大きな」ことのために時間を費やさねばならないのではないか?人生の使命?など、大げさなことも思い描くのだけど。

足元の、小さな愛を育めないままデッカイことなど、出来ません。

最高に安住の巣をつくることが私の人生のカダイ。だ。

家族に限らず、友人知人にとっても、そうあれるように。

 

ーーー以下、引用ーーー

なりたくて親になったわけではない。人を愛し、よろこびの一夜を過ごす。その結果、愉悦の結晶ができる。子どもが生まれる。すると、イヤでも親になる。それだけのことだ。おいしいものを食べると、嫌でもうんちができるようなもの。親だとか家族だとか、そんな結果必然的なことなど、だから哲学の問題ではない。

・・・(略)・・・

だが、違う。まったく違うのだ。家とは海。汚水も清流も、爆弾も魚貝も、光も闇も、雨もあらしも何もかも、分けへだてなく豪快に受け容れる海のようなもの。そして親とはそんな海になることだった。それは、どんでもない人生受容の出来事である。

ーーー(書籍、p165〜、古東哲明「親になるということ」より)




 

メリークリスマス!!