移動の電車等でゆっくり読み進めていた新書。
今日は中央大学に講義に行く電車移動中ということもあったし、熊本の大学フルタイム職を退職してこの3年間、時々(しばしば?)感じていたこととも重なり、思い巡らせました。
名前のこと。
夫婦別姓、夫婦同姓、氏名の使い分け、について。
前掲、親書によると(p71):
≪歴史を振り返れば、日本でも明治9(1876)年の法律(太政官指令)で、妻は実家の姓を名乗らなけらばならないとされていました。夫婦同性が法律化されたのは、明治31(1898)年ですよ。明治以前は、庶民はそもそも姓を登録することもなかったわけですから。≫
私は結婚する時に、まったく違和感なく、戸籍上の名前を「斉田」にしました。
仕事では変わらず「西英子」だったし、仕事の時間【だけ】、西英子のスイッチが入り、それ以外は、例えば、病院で名前を呼ばれる時も、公の書類を書く時や子どもを介して知り合ったママ友さんたちに「斉田さん」と呼ばれても、違和感は何ひとつなく、新しい家族として心地よくさえありました。
仕事で、officialに、「西さん〜」「西先生〜」と呼ばれるとスーッと仕事の私に切り替わっていました。
時々不便だなーと思ったのは、夫婦(家族)別生活で始終一緒にいなかったので、夫婦や家族の話をする時、聞き手に、テレビに出ている東京にいる「斉田さん(夫)」と熊本の「西さん(私)」のつながりが通じ難い...こと。
だから、
熟考の末、退職する時、次のステージでは、仕事でも斉田英子の1本にしようと決めました。
「キャリアが中断する(したように見える)から旧姓のままがいい」、「過去の論文執筆名とつながりがないように見えて不利になる」等のアドバイスをたくさんもらいました。でも、あえて、自分の決めた名前で、私にしか出来ない仕事をしようと、私的にはけっこう覚悟(!)して。今は旧姓で仕事はしていません。
そのことで何が起こったか?![]()
3年たっても未だに、【仕事上で会う方々、仕事をする相手・仲間・学生さん等々から、≪斉田さん≫≪斉田先生≫と言われることに、まーったく慣れない】ということ。変な感じ。
誰それ?みたいな気持ちすら、するのです。
ほお。
姓名への感覚というのは、人それぞれ、いろいろあるんだなあ!という実体験。
夫婦同姓でも夫婦別姓でも、どっちでもいいじゃないの。人それぞれ、その個人が自由に選べて、違和感なく過ごせる社会がいい。それだけだよね、という気づき。
私の場合は、名前を1本にする、と決めた後のこの違和感を面白い経験として過ごしていますが、姓を変えるのはどうしてもイヤだと思う方もいらっしゃいます。
夫婦(家族)別姓でも幸せな夫婦、家族も周りにいます。
同姓=家族の絆…等というそんな話しでも、もうあるまい、と思います。
選択できる自由。
自由に選べる社会。
自由とは確たる意思の上、責任の上、覚悟(!)の上のもの。
斉田英子として仕事をしても、いつか違和感なく自分に馴染む日が来るかなと楽しみにします。
姓名、「私」を表現するもの、私の一部。
