日曜日、3/3は、ひな祭りでした。
先週は夕食に簡単なちらし寿司をしたり、雛あられを食べたりしました
長崎の母からは、今年も飾ったよ!と写真が送られてきました。
ぼんぼりの片方の明かりが切れているあたりが何とも実家らしいー!
笑
母がこの大きな雛壇を押し入れから取り出して飾れた、ということが、母が元気な証拠でもあり、それが何より嬉しいことです。
そして、亡き祖父母が私のために買ってくれた当時に想いを馳せ、あちこちに連れて行ってくれた祖父母のことを思い出す時間でもあります。
命のバトン。想い出アルバム。
我が家は男児3人。
この雛壇、ゆくゆくは受け継ぎ、いずれは母の代わりに私が(私のため、世の女子のため
)飾りたいな!と思っております、リビングに堂々と飾りたい!
ひな祭りにあたり、性・性別について考えました。
男女の性別による差別、区別がまだまだある私たちの社会だから。
性別を超えた多様な性についてまだまだ寛容でない社会だから。
性別による違いは「ある」と思います。
男の子、男性のもつ特性と、女の子、女性のもつ特性には違いがある。
男の子らしく、女の子らしく、という言葉も、別に悪いことでもないと思います。男の子なんだから!女の子なのに!というセリフも頭に浮かぶことはあります。
でも、その頭の中のフィルターは、そんな単純に粗くはありません。
もっと細かい目をし、必ず、その子、その人、個人、個性を見ています。必ず。
究極は、性別はその人を表すひとつの記号みたいなもの?
それ以下でもそれ以上でもなし。
背が高い、低い、顔が丸い、四角い、など変えられない記号と同じような、とはいえ、髪型のように、髪が長い、短い、黒い、茶色い、などのように自在に変えることができる記号でもあるような。記号をどう使うかで、自由に印象をコントロールすることもできます。結局、「私は私」「貴方はあなた」です。
息子たち、自由に生きて欲しいなー!
極めてボーダレスに。水平に。対等に。寛容に。
6歳作

