日曜日は明治学院大学でのシンポジウムに参加しました。

"Learning in Life, Learning for Life"

~私たちはデンマークの教育から何を学び、何を目指すのか

デンマークでは、「どんな若者にも(ドロップアウトした子、様々なキャラクターの子、心身健康状態の違い等含め)、受け皿」がある。ということを再確認。

人の可能性を信じ、人に予算を投じ、見守る、支援する。

これを国、自治体、学校、家庭の、どのレベルでも実施、実践する人たち!

挑戦し、修正し、やりながら考える。

当たり前のようで、当たり前に出来なくなっている?私たち。

 

 

いつも心にある Learning in Life, Learning for Life

学びは何て素晴らしい^^

私にとってはどんなカタチあるモノより、学びのなかにある、目に見えなくても確かに手に感じる充足、しあわせ、ワクワクどきどき、探究心が、人生を豊かにしてくれます。小さな脳みそでは処理できないことがたくさんあり過ぎて、分からないことが山のようにあり、正解のない問いをいつも投げかけられて困ってしまいます><...

 

が、

 

「正解がないっていいな~」 

と思えるのは大人の学びを知ったから

 

中高時代は暗黒でした。目の前の答えを必死で覚えなければならないのかという感覚。毎日ルーティンの授業につまらない先生~ などと生意気でした!

ルールや決まりに沿って行動してパターン化されていく恐怖のような居心地の悪さは、学校ばかりでなく家庭でもどこにでもありました。

 

(成績がいくら急降下しても)「勉強」を嫌いと思ったことは一度もないのですが、この時期(年齢)を一刻も早く過ぎ去りたい、逃げたくて仕方ない10代の日々。だから、学年最低レベル(地方都市の進学校)のセンター試験の点数に心がグサグサにえぐられても、いつものポーカーフェイスで「入学できる大学」に「逃げ」たのです。

(大学院で進路変更)

 

学部の受験勉強からさっさとサヨナラしてからは、「好きな学び」を山ほどして、今もその学び欲は変わらず。そうはいえ、あの時期を「封じ込めて」「逃げた」という感覚は心の奥深く真っ黒ドロドロにあったために、「10代の嫌な自分」を背負ったまま年を重ね、変なプライドも重なり。そんな小さな自分を乗り越えたのは本当にごく最近という...

 

何でだろう?なぜそういう時期があったのだろうと振り返りつつ、今、子育てをしています。私はどうすべきだったか、どうしたらよかったのか、子どもたちにはどのような環境、場、態度を提示するといいだろう?...

 

東京にいると、お受験話があちこちであります。

小学校受験のための塾に通ってみたというお母さん友だちの話しを聞くと、言葉を選ばずに言うならば、その印象は「マニュアル化人間育成教室」でした。先生や大人の言った通りに動く子どもたち。大人(親)の描く道にとりあえず乗って安全運転のルールを学ぶ子どもたち。

 

「中学受験のために小3の冬あたりから塾に行かなければいけないのよ」と焦り迷うお母さん友だちもたくさんいます。東京近郊の選択肢の多さの良し悪しここにアリ!あり過ぎて困る...(地方都市の選択肢の無さも、ある意味では苦しいのですが)

 

ただ実際、中学受験の塾の話しを聞くと(進学塾の先生をしている友人、知人もたくさんいるので)、とにかく「学びが楽しい」と思えるように子どもの好奇心をガンガンくすぐる様子が伝わってきます。調べ、聞き、考え、話し、問いに向かうワクワク感満載。出来ないこと(科目)には寄り添い、学び合い、その子に合う道をサポートする塾もたくさんあり、学校の先生、家庭ではどうしても手が回らない個別のサポートには心底敬意。

 

確かに、そう思うと、例えば、東京に来て出会った日本屈指の、超難関中高出身の方々の面白いこと!眼鏡をかけた、いかにもガリベンタイプは一人もいません(笑)。「勉強」以外の「遊び」「経験」「無駄?笑」が多くて、とてもとてもユニーク、型破り。

実際、「名門校の『人生を学ぶ』授業」を読んでみるとなるほど~。

教科書を常には使わない、テキスト(教材)の行間を議論する先生、生徒同士が議論し生徒同士が学び合う場作り、体験学習や行事イベントの取り組みの半端ない本気度も。校則もない学校も。

 

結局、生きている限り、「私はどう生きるか」を考え続けることかと振り返りつつ。正解はない。決めるのは自分。

 

デンマークがどうで、名門校がどうだ、でもなく、

私はどうなの?どうしたい?の問いの連続です。