マルクス・アウレーリウスの【自省録】神谷美恵子訳
色あせた岩波文庫の最後のページに、当時、手に取った日付があります。
昔は、本を買った・読んだ日付を書いていました。その時に何か特別な気持ちがあれば、一言も添えることもありました。
1997..3.11 初春 と。
19年前・・・。若くて青い私。読み込んでいた形跡・・・
神谷美恵子氏の著書数冊は母から直々に譲り受けたものと、私が買い足したもの。
「読んでみたら」と手渡された本(若き日の日記)には、母の字で、
1986.4.30 とありました。母、45歳の時。
わたし自身の19年間は、進学、留学、就職、結婚等で、何度も引越し、その間に、かなりの本を手放してきたにも関わらず、いまだにこの数冊が2016年の私の本棚にあることに、ふと感慨深いものを感じ、パラパラとめくってみました。
改めて「自省録」を開くと、当時、気になる箇所に○や線が引かれていて、当時の気になる箇所が未だに同じだったり、また、新たな発見もありました。人間(わたし)は良くも悪くも変わらないものかなあ?
いい意味に捉えるなら、私には大事な考えがあり軸があるからこそ、気になる箇所が変わらない。と言うのか・・・な・・・
そのいくつかをメモして書き出しておきたいと思いました。
特に、一番ひっかかった一文は:(自省録p113)
昔起こった出来事をよくながめ、現在おこなわれつつあるすべての変化をながめれば、未来のことをも予見することができる。なぜならそれは必ず同様のものであろうし、現在生起しつつある物事のリズムから離れるわけには行かないであろうから。したがって人生を40年間観察しようと1万年観察しようと同じことだ。これ以上のなにを見ようか。
よきことも、失敗も、そこからの経験も、40年生きているとパターンが見えてくるので、あの時のあのやり方を使えばいい、等も分かります。同じようなことで繰り返しウジウジしてしまうこともまた、人間くさくって、いいもんだとも思えます。それが「わたし」![]()
ただ、昔とは明らかに違うなーと自分でも実感していることは、【自分に起こること全部全部に意味があって、どれひとつとして無駄なことはない】ということ。今までを振り返ると、本当にすべてのこと(点)が一本の線に繋がっています。
君がなにか外的の理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。ところがその判断は君の考え一つでたちまち抹殺してしまうことができる。(p137)
働け、みじめな者としてではなく、人に憐れまれたり感心されたりしたい者としてでもなく働け。ただ一事を志せ、社会的理性の命ずるがままにあるいは行動し、あるいは行動せぬことを。(p150)
すべての出来事は、君が生まれつきこれに耐えられるように起こるか、もしくは生まれつき耐えられぬように起こるか、そのいずれかである。ゆえに、もし君が生まれつき耐えられるようなことが起こったら、ぶつぶついうな。君の生まれついているとおりこれに耐えよ。しかしもし君が生まれつき耐えられぬようなことが起こったら、やはりぶつぶついうな。その事柄は君を消耗しつくした上で自分も消耗するであろうから。尤も自分の身のためであるとか、そうするのが義務であるとか、そういう考えかた次第で、つまり自分の意見一つで、耐え易く、我慢しやすくできるようなものもあるが、このようなものはすべて君がうまれつき耐えられるはずのものであることを忘れてはならない。(p163)

