今日は、少し前から気になっていたことを、紹介しようとおもいます。


エンド展


こちらは、無料の展示で、期間がとても短いです。今日、ネットで予約を取りました。

※話は見に行ってから後日に。ネットで予約を取った後、「Hiraql NOTE(ヒラクルノート)」の登録が必須なので、勧めていいものか悩みます。

↑こちら、東京都内開催のものです。





END展を見る前の価値観


真面目な話をしてしまうのですが、日本では死ぬのが難しい・・・日本人は死ぬのが下手・・・

その上、お盆や命日、墓参り、仏花という種類など、残されたもののマナー的なものがうるさい。亡くなった人は、何を望んでいるのかという目線ではなく、行動、形。

残された皆、都合の付く人が普段の様子で時間を共にするというので、良くないか?回数だって増やしたっていいんだし。

本当に大切であれば、いつだって、どこだって、偲ぶことができる。集まらなくても、心の内で。

悲しいことに、亡くなった相手が今をどう感じるのか、わからないのは辛い。

生きているうちに、交流のある相手の価値観を感じはするものの、意識をしていなければ、はっきりとした言葉で伝え合うことはないだろう。


一人一人が1日を満足して生きることが蔑ろにされ、「生きていくために生きる」とか、「死んでしまうことは大変遺憾」だと思っている。

いざという時、救急車を呼ぶことしか、選択肢がないとも思っている。


救急車を呼んだら、「命を救う」ということについて、優れた医師が最善を尽くしてくれる・・・

運ばれた病院で「放置」を意味するものではない。


人の命は、全然地球より重くない。

たまに、理不尽さで命の重さを感じるだけだ。


救急車を呼ぶことについて「命を助けて!」のことだと正しく思っている人は一握りではないだろうか?

本人の意思もあるかと思うが、本人以外が救命を頼む時、ほぼ、「どうすればいいの?・何もしないで見捨てた訳ではない・自分のせいではない・事故の現場にしたくない」という感覚なのではないか?


かといって、自分が死ぬ時どうすればいいのか。

希望は、親族の心に負担をかけないようにしたいし、不安と痛みが長く続くのは嫌だ、と漠然と思っている。けれど、皆、そうではないらしい。

※最近は、毎年年末年始に、遺言のようなのを見直している。←紙切れレベル


以前、親族が救急車のお世話になった時、その1日に運ばれた6人のうち、3人はすぐに亡くなった。その処置の様子を、虚に感じたらしい。

※命を取り留めた親族は、その場所で過ごす心細さと不安でいっぱいだったそうです。

同じ空間にいたのですから。

そういう感覚を持つ人もいる。


逆のバージョンで・・・


私の母は、糖尿病の一型で、インスリンが出ず、ずっと注射をしていた。

始まりは、風邪のような症状で、急に、「糖尿病一型」患者になってしまった。


その、母は、治療入院していて、現在透析を受けている。

治療入院する時、これからの意思について本人と確認した時、色々な場面を想定して、希望を書面で残した。※病院のフォーマットで。


その時、母は、「心臓マッサージなど、出来うることを全てする」、「食事ができなくなった時、喉を切開する」、等々あらゆる「サービス」を求めた。

透析さえも、私の心は苦しいのに。

※こうして生きてくれて、私には何をしてあげればいいのか、すぐには、頭に浮かんでこなかった。

今は、昔の話をしながら、笑わせることだけ。

家族として過ごした思い出を、違った角度で話し、私の心を見せて安心した笑いを提供することと、孫と話をさせる機会を作ること。

意識して機会をつくることが、母の透析の苦痛と、看護してくれるかたの労りとの交換だ。


私は、老齢の母を目の前に、今後の状況を想像し、また、あらゆる人が通る道を思い、自分に置き換えて判断するのが悲しく、しばらく席を外した。自分の命をどこまでも大勢の人に保障してもらうのか???

本人が希望していることについて、何も言えず、逆に、苦痛のことは考えていないのだろうか?とも思い、私とは違う「個」なのだと痛感した。

なぜ、ここまで「生」にこだわるのだろう???


私たちは生かされてる。

「教育・勤労・納税」で、やりくりして。


生かされてるけれど、急激な変化を望んでない。しかし、母の場合は、例えば・・・「老齢で心臓マッサージの時の肋骨を折る」という更なる苦痛が出る可能性もある。透析を続けるために、痛みを伴う手術も繰り返さなくてはならない。

食べる気力のなさや現状の身体の動かせない悲しさを憂いても、ノリで書いた意思表示は生き続ける。


ある時、保険の窓口のお店に、「70歳以上で入れるお得な保険あります」と看板が出ていて、私は例のごとくニヤけていた。

このキャッチコピーを書く人は、命のことを何とも思ってないのだと思ったから。

形のないものを売るのは難しい、形があるものに思いを乗せるのも難しい。どちらの違いも、どうせわからないのだろう。

「物」って、「物」で終わることも多い。

メルカリで、自分がプレゼントしたものが売られるとしたら、ショックだな・・・

心を想像しないプレゼント、すれ違っていると感じているプレゼント、形が溢れている。

けれど、その「物」の意味を汲み取れたとき、相手にはすごい反応がある。



死ぬことで辛いことって、なんだろう?


超個人的レベルで、「未来を見られない」「続かない」ってことに、重点を置きすぎているかもしれない。せめて子どもが成人するまで、孫を見るまで。

私は逆だ。私の存在で誰かが不安がなくなるまででいい。全ての人を満足させることはできないけど。


私、今、何も悔いがない。

私は、「生」に重点を置いていないから。

私は、「時の流れ」「想い」や、「価値観の違いを感じる」ことに毎日時間を割き、今現在のより良い着地点を探している。

今に納得のいかないこともたくさんあるけど。


きっと、私が死んだとしても、「自分の妄想でニヤけているらしいことも、中身を聞いたら、自分はどう思うか考えて楽しいこともあった。いつも、世界を冗談のように見つめていた。自分のことでは、不安や痛みは安易に取り去ることを考えがちで、自分勝手なところあったけど。」と、死んでも快く見送ってくれるだろう。やれやれ、と。