光に近づくにつれ、外の匂いがした。
血と香の匂いに慣れた鼻には、とてもすがすがしく、安心する匂いだった。木と、草の匂い。
穴を出ると、落ちたところと似たような森だった。
出口を振り返ったが、追ってくる様子はない。
涼しくて、心地よい風が吹いていた。
額を流れている汗がすぅっと引いていくのを感じた。
全身が涼しさを感じているのに、両腕だけは生暖かく、何かが流れている。
「お、おい!!」
ジョセフの腕の中の少女から大量の血が流れていた。
少女の唇は着色したかのように紫色だった。
「寒い…」
紫色の唇からもれた言葉はそれだけだった。
もう夏は終わりそうだが、寒いはずはない。
ジョセフはうろたえた。
この少女をあそこから連れ出すまでは良かったのだが、それ以上何も考えていなかった。
少女を連れ出したのは少女のためではなかった、あのままにしておけば少女が殺されるのは明白だった。
それを考えるのがイヤだったのだ。
少女が殺されたら、あの悲鳴が頭から離れない気がしたのだ。ただ、それだけの理由だった。
その少女が今まさに自分の腕の中で力つきようとしている。
それこそ一生頭から離れなくなるだろう。寝るときも、食事をしている時も思い出すに違いない。
「やめてくれ…この少女を助けろ!!」
ジョセフは少女を抱きしめて叫んだ。
少女から流れていた大量の血はピタリと止まった。黄緑色に輝きながらみるみるうちに傷口がふさがっていく。
それは美しく、いつまでも眺めていたい光景だった。だが、同時に恐ろしさを感じずにはいられなかった。普通であればこのようなことが起るはずはないのだから。
数秒もしないうちに傷口はふさがり、少女の体には乾いた血だけが残っていた。
少女は穏やかな寝息をたてていた。紫色だった唇も健康的なピンク色に回復している。
ジョセフはそんな様子の少女を見て安心したが、同時に少し後悔もしていた。そして自分という人間がほとほといやになってきた。
少女を助けたのは自分のため、そして助かった命よりも、自分のこれからのことを考えて後悔なんかしている。
ため息をつきながら、ジョセフは歩きだした。
まずは、ここから離れなくては。
少女は歩いてしゃべれるほど、すっかり回復していた。
先ほどまでの死体のような時は気がつかなかったが、少女はとても整った容姿をしていた。
「ジョエル・ボーヴァルレ=シャルパンティエ・ドゥ・ラ・ファージュ」
自分の名前を名乗るのが恥ずかしくなるような少女のフルネーム。しかし、その名前を聞いてジョセフは納得した。
少女ジョエルは貴族の令嬢なのだ。しかも、ちゃんと爵位のある名門だ。きっと屋敷では大騒ぎになっているだろう。
しかし、ジョエルは淡々とつぶやいた。
「多分、お父様もお母様も知らないと思うの」
ジョセフと手を繋ぎ歩きながら下をじっと見ていた。
「えっ!?」
「私、全寮制の学校に入っていて、そこから誘拐されたの。だからもしかしたら家には知らされてないかもしれないわ」
ジョセフは驚いた。
ジョエルはまだ11歳で、初等教育もまだ終っていない。親から離れるにはまだ早い。
「貴族っていうのはそういうものなのか?」
ジョセフがジョエルを見つめながら訪ねた。
「……」
ジョエルはひらすら地面を追い続けていた。
答えたくない理由があった。まだ11歳、しかし自分の置かれている立場は分かってしまう年齢だった。
ジョエルは意を決して口を動かした。
「私は…。私の兄弟はたくさん居るの」
ジョセフの聞きたい答えではなかったが、黙ってジョエルの話を聞いた。
「姉が3人、兄が2人、妹と弟が1人ずつ。私を含めて8人兄弟なの」
その口調から、ジョエルが兄弟を懐かしく思っているようには聞こえなかった。
「みんな屋敷で暮らしているわ、それぞれに家庭教師がついているの。大抵の貴族の子供達はそうやって教育を受けるのよ」
じゃあなんでお前は?と、ジョセフは聞けなかった。
ジョエルは気付かず話続ける。
「貴族という位はあっても、資産のない貴族の子供達は学校に行くの」
核心には触れずジョエルは貴族の子供がどのような環境で育ち、どのような教育を受けるかをジョセフに丁寧に教えた。
「私は、早めにどこかの貴族と結婚することになっているのよ、そうすればもうラ・ファージュ家の人間じゃなくなるの。そうなれば、お父様もお母様も安心するわ」
「どういうことだ?」
ジョエルの足が突然とまった。
ジョセフもジョエルの手をつないだまま止まった。
「私だけ違うの」
声が少しだけ震えている。
「私だけお母様が違うの。屋敷に居るラ・ファージュ男爵夫人は私の本当のお母様じゃなくて、私の本当のお母様は世界中を旅している踊り子なの」
貴族と踊り子、出会うはずもないほどかけ離れた身分だ。まさに、住んでいる世界が別であるべき身分。
ジョセフはジョエルの今までの生活を想像すると、自分の子供の頃の幸せがより一層輝かしく感じた。
「お前はこれからどうするんだ?」
これ以上その話をジョエルにさせたくなかったジョセフは話をかえ、歩き始めた。
「私は…」
ジョエルは生まれて初めて空を見るかのようにまぶしそうに空を見上げた。
「私は学校に戻るわ」
「本当にそれでいいのか?」
「うん」
ジョセフはそれがジョエルの本心ではないことは分かっていたが、ジョセフにはもちろんのこと、ジョエルにもどうすることも出来ないのだ。
今までどおりの生活に戻ることが、ジョエルにとって一番良い選択なのだ。
「じゃぁ、学校まで送ろう」
「ありがとう」
ジョセフにはその感謝の言葉が素直に受け取れず、悔しかった。
<4話> -完-