常雪の国から久しぶりに外へ出てきた。
 ここはサザンビークに程近い海岸地帯。ほぼ一年中このあたりでは海水浴ができるということだ。
 ククールは深く青い海を眺め、大きく伸びをした。
「すげー、きれーだなー」
 ごくありきたりなその感想に返事はない。が、ククールがここに一人きりというわけではないのだ。側にはこの世にたった一人残った肉親がいる。が、ある意味、この人間こそがどんな他人より遠い。
 ククールは青い海から隣人へ視線を移した。
「…………」
 マルチェロはものも言わず海を眺めている。そうやっているということは、少なくともここへきたことにそう不満はないらしい。こうやって無言の兄の感情を推し量ることはククールの特技でもある。相手が何も言わなくても考えていることくらい分かるのだ。
「暑くない?」
「…………」
「……ん?」
 急に日がかげった。いきなりのことにククールは思わず空を見上げ、眉をひそめる。
「雲?何か夕立が……」
 言うが早いか、強い雨が降り出した。気温は高いので風邪を引くことはないだろう。それでもククールは雨宿りの場所がないものかと周囲を見回した。
「あった!おい、木のかげまで走るぜ」
 問答無用でマルチェロの腕を引いた。本気で走ればククールではとてもマルチェロにかなわない。ククールが兄より優れているのはただ一点、僧侶系の呪文だけなのだ。
 それと、一般的な生活能力でも何とか勝ってはいるか。
 兄を引きずり木陰まで走った。服はすっかりぬれている。
 手を振り、頭を振り、ククールはずぶぬれになった体から水を払った。
「あーあー、びしょぬれ。あんたもかなりぬれたね」
「…………」
 マルチェロは何も言わず海に降る雨を眺めている。深い緑の目は雨に煙る海に少し似ていた。色だけを見るとひどく温かく、優しい。
 眺めているうち、通り雨は足を弱め、じょじょに空の果てが晴れてきた。ほんの一瞬だけ空が起こした気まぐれであったらしい。どうせすぐやむのなら、こちらが帰るまで待っててくれれば良さそうなものなのにと、ククールは空を眺めながら口を尖らせた。
 マルチェロは何を考えているのだろうと視線を向けてみる。以前は視線を向けるだけでも眉をひそめていたマルチェロだが、最近はそうでもなくなっている。見つめたり、ときどき触ることも許してくれるようになった。それでこの上ない幸福を感じられるのだから、ククールもかなりお手軽にできている。
 いきなり、マルチェロが口を開いた。
「……虹だ」
「え?」
 空に視線を向ける。背中のほうから差してくる太陽を受け、海の上に虹がかかっていた。このようなものを見たのはずいぶんと久しぶりのことである。
 しばし言葉もなく、二人で虹に見とれた。
「きれーだなあ。何か、祈ったら願いがかないそうな気が」
「……何にでも祈ればいいというものではない」
「分かってるよ」
 真面目なマルチェロに言葉を返しながら、ククールは虹から降ってくるような雨を見つめた。ずいぶんと小降りになっている。
 まるで虹から降り注ぐしずくのようだ。あれほどに美しければ、欲にまみれた人間の願いすら浄化され、そして美しく変化させて叶えてくれそうな気がする。
 兄はああ言ったが、ククールはそれを聞かず虹に祈ってみた。
 虹のしずくのように幸福が降り注ぎますように。
 世界中に、そしてできれば自分のすぐ側に。
 純粋で、そして少しだけよこしまなその願いは虹に吸い込まれ、やがて薄れ空の向こうに消えていった。


05/09/26
ククールは健気で情けなくて格好いい男だと萌えます。
マルチェロは無愛想で不器用でククールとその一味だけに嫌味だと萌えます。