今日、たまたま、テレビを見ていたら東田直樹さんを取材した番組が流れた。
重度の自閉症である東田直樹さんは、人と会話をすることはできないが、文字盤を使い、豊かな表現力で現在プロの作家としてエッセイや小説を書いている。その東田さんを、以前より取材していた番組ディレクターが、ガンを患い、自らも「ハンディ」を抱えることになったといい、改めて東田さんを取材した番組だった。
ディレクターさんはがんと診断されたのは31歳くらいだったか、肺や肝臓にも転移し、5年生存率は5割以下という厳しい状況で抗がん剤と手術を行い、1年間の闘病を経て、何とか職場復帰を果たされたものの、今も治療の後遺症や再発の恐怖に苦しんでいる、とのことでした。
(そもそも、がんが「ハンディ」と呼ぶべきかについては引っかかるとこではあったが…)
そのディレクターさん自身が「ハンディ」を負って改めて取材したなかで、東田さんが鋭く返した言葉がとても心に残った。
それは、ディレクターが若くして癌を患い、親や祖父母より先に死ぬことで命のバトンがつなげなくなった、と話したときに返された言葉だった。
「僕は命というものは大切だからこそ、つなぐものではなく、完結するものだと考えている。
命がつなぐものであるなら、つなげなくなった人は、どうなるのだろう。
バトンを握りしめて泣いているのか、途方にくれているのか。
それを思うだけで、僕は悲しい気持ちになる。
人生を生き切る。
残された人は、その姿を見て、自分の人生を生き続ける。」
今日、このタイミングで、この言葉に出会えて良かったと、心から思った。
なぜなら、私は命のバトンを握りしめて泣くしかないのかと、途方に暮れていたからだ。
乳がんを患ってからずっとモヤモヤし、心をしめていたことだった。
鋭く突き刺さる言葉だった。
乳がんになったからこそ、女性であることを嫌というほど、逆説的ではあるが、女性ホルモンを制限したり、乳房を切られたりするなかで身に染みて思い知ることとなった。
そして、癌と向き合うなかで、人としての生き方を思った。そのなかで、今日の一発食らった言葉で、目が覚めた。
私という人間の、生きる姿。
命を完結させた、その姿が、私の残せる全てであり、それ以上でも、それ以下でもなく、またそれ以外にはない。
偶然とはいえ、東田さんの言葉に出会えて良かったと思った。
