①ベトナムとの出会い
私が初めてベトナムの地に立ったのは、今から26年前、社会人1年目の夏でした。
まだベトナムは観光地としての認識はなく、「地球の歩きかた」というマニアックな旅行本しかなかった頃です。
新聞の片隅から、料理教室と一日ホームステイつきのこれまたマニアックな旅行企画を見つけてきた母に誘われての旅でした。
ホーチミン市のタンソンニャット空港に着陸。
飛行機を降りると、独特の香りの生あたたかいまったりとした空気に包まれたのを覚えています。
そこで見たのは、ごった返す人々の生々しい「生(せい)」でした。
良くも悪くもあけすけで生きることに遠慮のない人々。
道沿いはどこも何かしらをごっちゃりと売っている店、その路上の地べたには市場が立ち、屋台があり、風呂場用のような低いプラスチックの椅子が無造作に置いてあり、その隙間を自転車の後ろに大きなかごを乗せて果物を売る人、天秤棒を担いでおやつのようなものを運ぶ人、両脇に何十羽ものアヒルを束ねてグアーグアー鳴き声を運ぶバイク、2人乗り3人乗りは当たり前のバイクの群れ、日に焼けた男たちが漕ぐシクロ(人力車)がぎゅうぎゅうと行き交い、ひっきりなしのクラクションと道行く人に呼びかけ続ける老若男女の声が重なり合い、足元には物乞いの子どもやお年寄り...
用事がありそうな人もなさそうな人も皆人懐っこく話しかけてくる。
熱量たっぷりの、これが喧噪かというものが繰り広げられていました。
日本では道は通るものだと思っていたけれど、ここにはまさに人々の生活がある。
そんな目の前の光景に私はかなり興奮していました。
そしてその怒涛の中に佇んでいることが心地よく感じたのでした。
ホテル以外はほぼ英語も通じない街中で、指さしのみであれやこれやを食べ歩き、そのどれもが生まれて初めての味と香り、こんなに美味しいものがあるなんて、と、衝撃が体中をを駆け巡りました。
胃袋が許す限り、あれもこれも、あれをもう一回などと市場や路地をうろつき。
帰る頃にはすっかり空気も人も暑苦しいこの国の虜になっていました。
帰国してからもベトナムのことで頭がいっぱいで、当時東京で仕事をしていた私は、都内中のベトナム料理店、ベトナム食材店、国際ボランティアセンター、ベトナム語講座など、ベトナムにかかわりのありそうなところを片っ端から調べては足を運び、入り浸たる生活に。
ベトナム人の友達も増えていき、生活も心の中もどんどんベトナムの比重が大きくなっていきました。
一年後に再び同じ旅行企画でホーチミン市を訪れた時、私の気持ちは固まりました。
「ここに住みたい。ここに住まなきゃ!」
しかしまだインターネットなどない時代。
情報源は電話帳と本屋さんのみ。
貯金はすぐに底をつくだろうし、仕事をしながら住むほうがいいだろう。
当時の仕事を活かせたらと青年海外協力隊の説明会にも足を運びましたが、ベトナムにはその職種の求人はありませんでした。
ではなにができるか。
他に私にできることといえば、日本語を話すことくらいです。
日本語教師は需要があるだろうか。
世界各国では大学で日本語教育を専攻していないと雇ってくれない日本語学校が多いなか、ベトナムではそのような条件は緩そうだということがわかり、早速仕事をしながら通信で日本語教育の勉強をはじめました。
母国語だから日本語なんて簡単、と高を括っていたのですが、いざ勉強を進めていくと、日本語の構造はなんと複雑なのかとめまいがする日々。
日本語が達者な外国の友人たちを改めて尊敬したものです。
仕事の日は昼休みは屋上でテキストを読み、休日は図書館に通って提出する課題に取り組む、勉強漬けの一年となりました。
合格率は2割程度と言われる日本語教育能力検定試験も無事合格し、仕事を辞め、ベトナムで日本語教師として迎えてくれる場所を見つけ、ベトナムへと渡ったのでした。
私が初めてベトナムの地に立ったのは、今から26年前、社会人1年目の夏でした。
まだベトナムは観光地としての認識はなく、「地球の歩きかた」というマニアックな旅行本しかなかった頃です。
新聞の片隅から、料理教室と一日ホームステイつきのこれまたマニアックな旅行企画を見つけてきた母に誘われての旅でした。
ホーチミン市のタンソンニャット空港に着陸。
飛行機を降りると、独特の香りの生あたたかいまったりとした空気に包まれたのを覚えています。
そこで見たのは、ごった返す人々の生々しい「生(せい)」でした。
良くも悪くもあけすけで生きることに遠慮のない人々。
道沿いはどこも何かしらをごっちゃりと売っている店、その路上の地べたには市場が立ち、屋台があり、風呂場用のような低いプラスチックの椅子が無造作に置いてあり、その隙間を自転車の後ろに大きなかごを乗せて果物を売る人、天秤棒を担いでおやつのようなものを運ぶ人、両脇に何十羽ものアヒルを束ねてグアーグアー鳴き声を運ぶバイク、2人乗り3人乗りは当たり前のバイクの群れ、日に焼けた男たちが漕ぐシクロ(人力車)がぎゅうぎゅうと行き交い、ひっきりなしのクラクションと道行く人に呼びかけ続ける老若男女の声が重なり合い、足元には物乞いの子どもやお年寄り...
用事がありそうな人もなさそうな人も皆人懐っこく話しかけてくる。
熱量たっぷりの、これが喧噪かというものが繰り広げられていました。
日本では道は通るものだと思っていたけれど、ここにはまさに人々の生活がある。
そんな目の前の光景に私はかなり興奮していました。
そしてその怒涛の中に佇んでいることが心地よく感じたのでした。
ホテル以外はほぼ英語も通じない街中で、指さしのみであれやこれやを食べ歩き、そのどれもが生まれて初めての味と香り、こんなに美味しいものがあるなんて、と、衝撃が体中をを駆け巡りました。
胃袋が許す限り、あれもこれも、あれをもう一回などと市場や路地をうろつき。
帰る頃にはすっかり空気も人も暑苦しいこの国の虜になっていました。
帰国してからもベトナムのことで頭がいっぱいで、当時東京で仕事をしていた私は、都内中のベトナム料理店、ベトナム食材店、国際ボランティアセンター、ベトナム語講座など、ベトナムにかかわりのありそうなところを片っ端から調べては足を運び、入り浸たる生活に。
ベトナム人の友達も増えていき、生活も心の中もどんどんベトナムの比重が大きくなっていきました。
一年後に再び同じ旅行企画でホーチミン市を訪れた時、私の気持ちは固まりました。
「ここに住みたい。ここに住まなきゃ!」
しかしまだインターネットなどない時代。
情報源は電話帳と本屋さんのみ。
貯金はすぐに底をつくだろうし、仕事をしながら住むほうがいいだろう。
当時の仕事を活かせたらと青年海外協力隊の説明会にも足を運びましたが、ベトナムにはその職種の求人はありませんでした。
ではなにができるか。
他に私にできることといえば、日本語を話すことくらいです。
日本語教師は需要があるだろうか。
世界各国では大学で日本語教育を専攻していないと雇ってくれない日本語学校が多いなか、ベトナムではそのような条件は緩そうだということがわかり、早速仕事をしながら通信で日本語教育の勉強をはじめました。
母国語だから日本語なんて簡単、と高を括っていたのですが、いざ勉強を進めていくと、日本語の構造はなんと複雑なのかとめまいがする日々。
日本語が達者な外国の友人たちを改めて尊敬したものです。
仕事の日は昼休みは屋上でテキストを読み、休日は図書館に通って提出する課題に取り組む、勉強漬けの一年となりました。
合格率は2割程度と言われる日本語教育能力検定試験も無事合格し、仕事を辞め、ベトナムで日本語教師として迎えてくれる場所を見つけ、ベトナムへと渡ったのでした。