今クール話題のドラマ「silent」。

最終回目前のここへ来て、脚本家の発言をめぐって炎上していますね。ご存知ですか?

 

ドラマのプロデューサーと監督、そして脚本家の3人でのトーク番組の中で、脚本家の方が言いました。

要約すると、「私は日本語が好きで、日本語の細かいニュアンスにこだわってセリフを書いている。なので、他言語に翻訳されて海外に行った場合、このニュアンスが伝わるか疑問だ」というような趣旨のことを言っていました。

 

その、言わんとすることはわからなくはないです。しかし、その後の言い回しが良くなかった。

「日本人に見て欲しい。あ、日本語がわかる人に見て欲しい」

 

あー、何てことを言うんですか・・・。案の定、炎上しました。

 

 

まず、海外でこのドラマを視聴している方たちからの反発。

「楽しく見ていたのに、そんなことを言われるなんて悲しい」「私たちが見ちゃいけないの?」

・・・そうなるよね。当然だと思います。実際にこのドラマは海外でも配信されているのに、脚本家は、「海外なんて興味ない。配信されても別に嬉しくない」とか言っていましたね。

 

 

でもそれ以上に、私が引っ掛かったのは、「手話」という他言語に翻訳しているドラマなのに、それを言う!?ということです。

 

 

↑ここでも書きましたけど、今回のドラマの場合、想くんや奈々ちゃんのセリフは、脚本家が書いた日本語のセリフを手話監修の方が手話に翻訳してくれていますね。

日本語と手話は異なる体系を持つ別言語ですので、脚本家が書いたセリフを、そのまま全く同じセリフとして手話に訳すことはできません。

 

 

例えばですね…ひとつ例をあげて説明しますね。

 

何話だったか忘れてしまいましたが、想くんが紬ちゃんと話しているシーンで、「声が出せないわけじゃないんだ」っていうセリフがあったと思います。

こちら、脚本家の元のセリフ(字幕)は二重否定になっていますが、手話では「実は声は出せるんだ」となっていました。

 

手話では、二重否定はあまり使わないんですね。

脚本家は手話を知らない人なので、気にせず書いたのでしょうが、手話監修の方がこのように変換して訳しているわけです。

 

「声が出せないわけじゃないんだ」

「声は出せるんだ」

 

この2つのセリフ、意味としては同じかもしれないけど、ニュアンスは少し違いますよね。

でも、手話という違う言語に翻訳しているので、これは仕方のないことだと思います。

 

 

その他の手話セリフについても、同じです。

もちろん手話監修の方は、最大限にニュアンスを近づける努力をして翻訳しているでしょうが、違う言語である以上、ぴったり同じ訳にはなりません。

 

 

奈々ちゃんの「プレゼント使い回された」のところも、手話では「プレゼント奪われた」もしくは「横取りされた」という感じの表現をしています。「使い回す」にぴったり当てはまるコトバが、手話には無いですね。

夏帆さんはこの手話をしている時、口形でも別に「使い回された」とは言っていませんから、「プレゼント使い回された」と言っているのは、字幕だけなんですよ。ものすごく極端な言い方をすれば、ドラマの中の奈々ちゃんは「プレゼント使い回された」とは言ってないんですよ。

(その後の説明セリフで、“使い回された”に当たるニュアンスを説明していますが)

 

でもそれは、仕方ないことですよね?手話を知らない脚本家が書いたセリフなんだもの。

その台本を受け取った手話監修の方は、可能な限り近いコトバで、そのニュアンスや状況を伝えるべく翻訳しているのです。

 

 

今まさに、そうやって手話監修のろう者の方と一緒にドラマを作っていたのに、脚本家のこの発言は「残念」のひと言です。

 

だって「他言語に翻訳されてニュアンス変えられるの嫌。私の書いたセリフのニュアンスがそのまま伝わる人にだけ見て欲しい」と言ってしまうということは、「手話なんか見ないで、私の書いた字幕だけ読んでいれば良いのよ」って言っているも同じでしょう?

 

「今、この登場人物は手話でしゃべっているのよ」という絵面だけが欲しくて、実際に何て言っているのかなんて興味もなくて、私の繊細な字幕のセリフが全て!ということですか?

手話という存在は、単なる恋愛を盛り上げるアクセサリーだとでも?

 

それって、訳してくれた手話監修の方にも、それを覚えて手話で演じてくれた目黒漣さんや夏帆さん達にも、全く思いを寄せてくれていなかった、ということじゃないでしょうか。

とてもとても、残念で悲しい気持ちです。

 

手話はろう者の第一言語であること。手話は日本語とは別の独立したひとつの言語であること。

そのことをわかってくれて、このドラマを書いてくれていると思っていたので、とてもとてもモヤモヤします。

 

そして何より、愛(家族愛や友情も含め)はコトバを超えていく、っていうドラマじゃなかったのでしょうか…。

 

 

ただ、ドラマとして「silent」が素敵であるということには変わりないし、とても好きなドラマであることに変わりありません。

明日の最終回も、とても楽しみにしています。

 

だからこそ、最終回目前のこのタイミングで、この発言は聞きたくなかった。

脚本家はこれが連ドラデビュー作ということで、メディアの出演経験もあまり無かったでしょうから、うっかりコトバのチョイスを間違えた、という部分はあると思います。でもトーク番組は生放送ではなく収録だったのだから、その部分をカットすることだってできたはず。なぜカットせずにそのまま放送したのか、そこもすごく残念に思います。